現代文化研究とは

いわゆるカルスタのことだが、そのように呼ばれるニューレフトの取り組みがマイクロポリティクスにお墨付きを与える護符であるかのように機能する状況は、堕落と呼ばれてもしかたがないのではなかろうか。

「○○の誕生」式の議論は、むしろ、マイクロポリティクスへと体制批判が整流されてしまうメカニズムを遂行的に解析する知性だと信じられていたのではないのか?