芸術新潮と福田恆存

雑誌というメディアには、記事をバラして様々なキーワードで串刺し検索するのとは違う手法でアプローチしたほうがよさそうな特性があるようだ。

芸術新潮という雑誌は、創刊から10年、アヴァンギャルドな人々を好奇心満々に持ち上げる路線を進むが、昭和33年に、アヴァンギャルド批判に転じる。

論客として福田恆存の誌面での存在感が増し、あたかも、そのような新路線のイデオローグであるかのように見えるが、LP評に独立したジャンル(趣味)としての場所を与える誌面構成がスタートする。そして、「大阪」(←いつまでも戦後的大衆運動を捨てないアカだと見られていたかのようだ)を叩き、朝日の芸術祭を叩き、前衛美術とカネのスキャンダルを暴くために、週刊誌風の「総力取材」形式が採用される。

その際、常連ライターの吉田秀和は、「福田さんのよき友人」として、同誌の新しい路線に同調している。

60年安保(昭和35年)の前の段階で既に、芸術新潮の誌面では、もはや左翼には、まったく勝ち目はないかのようだ。

1冊ずつ同誌を読み進めて、このあたりの動きが見えてきた。

のちに椹木野衣が「悪い場所」と形容することになる「戦後的アヴァンギャルド」は、旧態依然のアート界への批判であったというよりも、むしろ、高度成長を牽引する主流派が当初積極的に関心を抱いていたが、ある時点で主流派から見切りを付けられ、1960年の段階では、もはや、体制を転覆しない少数野党という場所しか残されていなかった。船出の時点で「サブ」を運命づけられていたのかもしれない。

日本版カルスタは、議論を60年代から始めることで、そのような「文化の55年体制」の内部に囲い込まれて、そこから出られない理論構成になっていたのではなかろうか?

おそらくこれは、「消費者・ユーザー」のマイクロポリティクスの限界と同値だと思う。

(サービスとしての大宅文庫という、俗世の営みであるがゆえに、うたかたの夢としていずれは消えるであろう事案とは別に、論客としての大宅壮一、物書きとしての福田恆存とは何だったのか、という事案があり、それは、彼らが旗を振って応援したその先で(別にその首謀者・実行者ではなかったと思うが)積み重なった業績の後塵を拝するフォロワーの構えでは語り得ないだろう、ということです。

そしてこれは、態度の「本気度」、腰が据わっているか否か、という精神だかモノだかわからない俗流の身体論ではなく、ある事案にアプローチするにはどのような視点と深度と角度が有効か、というような技術論でほぼ処理できそうな話だと思います。

少なくとも私は、かようにカジュアルな案件で、いちいち「腰」や「性根」を問われるのは勘弁して欲しいと思います。

コシを語るのであれば、まずは相撲やうどんで、メタファーではなくリテラルにやって欲しい。)