中卒のエクリチュール

論語とか、EECがECを経てEUになった経緯とそこでの英国のスタンスとか、地方自治と国政の関係とか、戦後日本の大学が大衆化したとはいえ、文系のまっとうな進学校で学んでいれば、高校でひととおり教わるよね。(共通テストという、解けるのが大学進学の前提になっている試験もあるし。)基礎の基礎だから、続きは自力で勉強することになるとしても。

朝日毎日のような戦前の小新聞が、昭和期に全国紙(あたかもクオリティペーパーであるかのような)に躍進して、昭和後期に民間放送を傘下に収めるマスメディアの王座に就いたときに、マスコミのエクリチュールは、「中学生にわかるように書きましょう」というのが基本になった。

中卒集団就職でスタートした高度成長から、昭和50年頃には高卒が当たり前になる。そしてスポーツや吹奏楽をはじめとする高校のクラブ活動の隆盛、サブカルの学園ものは高卒を前提にしていますよね。そして1980年代のポストモダンな新人類、トレンディな都市文化は大卒が前提なのだろうと思う。

ところが、それにもかかわらず、マスコミのエクリチュールが平成になっても「中学生にわかるように書きましょう」のままなのは、万単位以上の「マス」に届けためには、所詮は水増しに過ぎない高卒・大卒の内実が中卒レヴェルであるような読者を相手にする覚悟が要りますよ、ということだと思う。

(1980〜90年代の朝日の文芸時評は、大衆社会に社交を求めた山崎正和だけでなく、単行本未収録の蓮實重彦ですら、いちおう、「中学生にわかるように」書かれていた。)

それはいい。既に「教養主義の没落」として散々言われていることだ。

SNSが、文系博士な皆さんを含めて、「中卒レヴェル」な感じに物事に驚くのがよくわからない。

皆さんは万単位以上の読者に向けて情報を発信しているのだろうか? めざせ21世紀のマスコミュニケーション!なのだろうか?

Mimesis as Make-Believe というけれど、中卒レヴェルのエクリチュールのミメーシス、ごっこ遊びのつもりでやっていると、そこに表象が生成してしまうということか。東浩紀が、「ネタ」とか「敢えて」とか言ってる奴は、そのうちあっさり「ベタ」に反転する、とよく言うが。