中間団体のエクリチュール

戦後関西の洋楽史を調べていると、私文書以上マスメディア未満の様々な中間団体・任意団体が発行した活字文書を読むことになる。

実はそういう文書は今でも大量に存在して、たとえば、コンサートのプログラムノートとかいうのも、(ここ数年で急速に「マスメディア」風に清潔な文体が求められるようになった、もしくは、そういう文体でしか書けない、そういう文体しか読めない人たちが席巻するようになっているけれど)会場に集まった数百人数千人にその日その場で読まれることを想定して、「私文書以上マスメディア未満」の文体で書かないとうまく機能しない独特の文書だと思う。様々な団体の会議資料や内部配付資料や社内報、一斉送信メールなんかもそうですよね。

私学のサークル活動が母体の文書(公演プログラムとか年史とか)は、「中学生にわかる」マスメディアの文体とは逆に、同じ階層・文脈を共有する前提で、その話題が説明や留保なしにスラスラ進む独特のアクセルが装着されているように見えるし、

労音(勤労者音楽協議会)の会報のような文書は、労働組合が母胎と言っても職能組合ではなく、企業単位の職場組合で仲間を募る形なので、構成員がまだらだし(だからこそ「労働者」という階級を示唆する名称ではなく「勤労者」=サラリーマンの語を使うのだと思う)、最盛期は万単位なのに、率直に意見を交わす face to face の「協議会」という構想なので、様々な指向・路線等々が細かく入り乱れて、マスメディアで流通する文書以上に雑種度が高まっているように見える。

マスメディアと言っても、公共図書館に縮刷版やマイクロフィルムが収蔵される新聞と、大宅文庫な雑誌では様子が違う、というのは、現にそこらを歩き回っている新聞記者と雑誌のライターのキャラは見るからに違っているから納得しやすいかもしれないけれど、「私文書以上マスメディア未満」とつきあうためのリテラシーは、どこでどういう風に身につくのだろう。

学会=学者のコミュニティというのは、それ自体が「私文書以上マスメディア未満」の中間団体だと思うし、このあたりを主題化する場になりそうだと思うのだが、その当事者の皆さんは、自身が「私文書以上マスメディア未満」のエクリチュールを行使している自覚があるのだろうか?

(ひょっとすると、エスノメソドロジーがアプローチしようとしている領域は、こういう話と何かが重なっていたりするのかしら。)