「楽しみ」とは何か?

本屋でパラパラとページをめくったら、小説の話者と読者の関係が第3章で論じられていることがわかったので、やはり購入しないと仕方がないかと観念した。

フィクションの美学

フィクションの美学

とりあえず第3章のみ先に読んだ。テクストを読む、という行為の分析において、読者が何を楽しんでいるか、というのが論を進める重要な判断基準になる場面があるのだが、「楽しみ」とは何なのか? この判断基準をもちだすときに、著者はこの論考で採用した分析的なスタイルを離れ、「かつて「遊びの現象学」の著者であった私」が降臨してしまっているのではないか、と心配になった。

そして最後に、「読むことそれ自体の楽しみ」を贈与として祝福するに至ってしまうと、「読書とは何かを楽しむ行為である」という想定が論点先取気味に、あるいは、同語反復気味に、空回りしていることになりはしないか、と、少々残念が気がしました。

批評家や歴史家ではない読者が、共感ベースではなくフィクションを読むことは、たぶんそれほど例外的ではないし、フィクションはそのようには読めない、とまでは言えない気がします。フィクション論を書く以前のところで、現実と虚構が区別できる、という想定に、Ah yes! と共感してしまっている感じ、既に何かに共感してしまっている仮想の共同体に向けて書かれている感じが、論の弱点ではないかなあ、と思いました。

分析哲学の手法は様々な場面で有用なのだろうと思うし、著者がフィクションを読むことに喜びを覚えるのも、きっとそうなのだろうと思うけれど、その喜びは、分析哲学の手法で論証・析出できる種類の事柄なのか、いまひとつ私にはよくわからない。

以上、ひとます初読の感想を記して、最初から読み直します。