読みの善悪

学問共同体は、理念上、性善説で運用されていると言えそうだ、というのは、そうかもしれないと思うけれど、学問において有力な方法として活用されている「テクストを読む」という行為は、はたして、倫理上、善に回収できるのだろうか?

学問共同体がテクストを読む行為を善として倫理的に祝福しようとするのは、ひょっとすると、学問によるテクストへの越権行為ではないだろうか?

私は、フィクションを語る人が「赤」に言及してしまうのは、そういえばそうかな、としか思わないけれど、その蓮實重彦も佐々木健一先生も、そして西村清和先生までもが、決定的な場面で「恩寵」「贈与」の語を使うのは、どういうことなのかなあ、とは思います。