日本美学界のサイバーパンク

フィクションの美学

フィクションの美学


やっぱりこの本の第2章はとっちらかっていると思う。

英米論理学に fictional discourse (非実在を指示対象とする発話)の地位と意味をめぐる議論の蓄積があって、これが実りある展開を見せたらしいことはわかったので、勉強した方がいいのかなあ、とは思いました。(John R. Searle, "The Logical Status of Fictional Discourse" が議論に火を付けた、という理解でいいのでしょうか、本書が出てから既に20数年なので、今はさらに色々な議論があるんでしょうね。)

でも、非実在世界を描いて英語で fiction と呼ばれるテクスト群が fictional discourse だけでボトムアップに構成されていると言えるのかどうか、様々な異論がありそうだし、参照されている論理学の先行文献群が、fictional discourse をめぐる論理学的な議論を踏み越えて fiction の詩学や美学を構想する基礎になり得る主張を含んでいるとまで言えるのか、この本での引用と議論だけでは心許ない気がします。

演技論についても、ミメーシス等の概念で語られてきたことに対して、fictional discourse に関する論理学での議論が「上位互換」だと言えるのかどうか……。

「fictional discourse とは、fiction に奉仕する言説である」という主張は、やっぱり話が循環しているように思いますし……。

(それに言語や表象を取り扱うアートやエンターテインメントが、必ずしもすべて fiction を志向している、とまでは言えなさそうですよね。)

おそらく、ですが、ちょうど、二進数(0 と 1 ですね)を高速に演算処理する機械の多方面での実用化の目処が立ったときに、デジタル・ワールドへの夢が熱く語られ妄想されたのに似て、real と fiction の二分法が面白い、ということに興奮した著者が、 r と f を高速処理するデジタル美学のようなものを幻視してしまったのではないでしょうか?

解けるか否かはともかく、ここに何かがある、と指差す問題発見能力が卓越していて、それで後進の新しいことをやりたい人たちから慕われていらっしゃったのかなあ、とは思いましたが。