国文学の天下泰平なテクスト論とフィクション論

現在の文学理論では、「小説精読者」は小説の読みの可能性を広げようとする「テクストの生産者」であり、「小説の普通読者」は小説を娯楽作品として素直に享受するだけの「テクストの消費者」と言い換えることができる。(77頁)

と高らかに宣言されるのだけれど、それがどのような文学理論なのか、出典は示されない。で、読む行為は自由なのだ、とされるときに、この主張を担保するのが、「小説はフィクションである」という認識であるらしい。

リアリズム小説という概念を持ちだしたあとでこういう話になり、フィクションには「はじめ」と「おわり」がある、ということなので、フィクションは、現実世界に対して入口と出口をもちつつ現実とは仕切られた領域、門と城壁に囲まれた自由都市のようなものと想定されているようだ。

でも、そのような「フィクションという名の自由都市」の有様を説明する概念装置がヤウスやイーザーの受容美学で、しかも、著者はヤウスやイーザーをポスト構造主義への道を開いたニュー・アカデミズムに数え入れているらしい。(著者の説明では、中沢新一はニュー・アカデミズムの「最後のひとり」なのだそうで、これはいったいどういう思想地図なのかと驚く。)

自由都市としてのフィクションは、1980年代に外部との門を閉ざして、そのあと30年鎖国して今日に至っているかのようだ。鎖国の動機は現代のバテレンと言うべき共産主義にこの国を乗っ取られるのを恐れたから、なのだろうけれど(ちょうど左翼転向組のハードな前田愛先生は亡くなったし……)、開国しないのは、やっぱり北米の黒船が恐いのだろうか。「出島」を通じてカルチュラルスタディーズとかフェミニズムとかの翻訳書が入っていないわけではないようだけれど……。

岡田暁生が、オペラ史や音楽史を上手に物語るのに、音楽の聴き方指南がへたくそだったのをちょっと連想してしまった。

昭和30年代生まれの人文系の先生には、こういう感じに80年代で思想が止まっている人が少なくないような気がします。

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

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