テクストを精読する際に作者の意図を詮索すると作家論になり、作者の意図以外のことを語れば作品論になる、と言ってしまうのは、表通りだけ大急ぎでハイカラにした明治の疑洋風建築みたいな文学論だなあ、と呆れてしまうし、作者概念や作品概念がそういう風にグズグズになるのは、おそらく詩を視野に入れることなく小説を、しかも、ほぼ近代の口語体の日本語の小説だけを扱おうとするからなんだろうなあ、と思ってしまったのですが、学校の国語の先生やその予備軍としての国文学科というのは、数が多くて裾野が広いので、そういう雑な言い方で束ねるしかない自民党のどぶ板選挙みたいなことになっているのでしょうか?
「近代文学の終焉」という判定に対して、書かれていないテクストの向こう側に内面を読み込み、出来事・描写の連なりを因果の連鎖としてプロットにまとめる読者の欲望は絶えることがないはずだから、近代文学(ほぼ小説)は亡びない、と言ってしまうのは、音楽で言うと、ドレミを並べたメロディーに癒やされて、規則的な拍子にプロットされたリズムに乗って踊る欲望は人間の本性(Nature)だから音楽がなくなることはありません、と思い込むようなもので、人類学者がびっくりしそうな素朴な現状肯定だと思う。
天下泰平というよりも、追い詰められている、ということなのでしょうか。
- 作者: 石原千秋
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/10/09
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