「国語教育の失敗」 - 解釈共同体論

石原千秋の読者論は受容美学が土台なので、特定のアングルからテクストにアプローチすることを要請される読者たちの解釈共同体の話になっていくわけだが……。

解釈共同体は、まるで前衛政党のように党議拘束を受けて、あるときは「作家論」、またあるときは「作品論(作者の意図の詮索の禁止)」というように一体で動くと想定されているようだ。(クーンのパラダイム概念が党議拘束のようなものと理解されているように見える。)

[国文学の「読者論」は転向全共闘世代の残党感があるようで、そのようなトーンで綴られた一連の書物を読むのは辛い。]

また、日本の解釈共同体は、西洋の解釈共同体とは違って「空気を読む」。なんとなく一体として動いてしまう、という風に、俗流日本人論が流れ込んでいたりもする。

しかし、それならいっそのこと、デモクラシーの擁護、そのためのサンクチュアリとしての読書ということで、「作家論」も「作品論」も、議論百出が肯定される場所である、ということにしてしまえばいいのに。

そのうち、スクール・カーストのなかで育ったとされる若い世代が解釈共同体に格差を導入する(オトナの世界にもイジメやカーストは普通にあるのだから、既に導入されている)というような話になって、さらに事態はグズグズになるのかしら……。

東浩紀は「日本の国語教育の失敗」ということを言うが、なるほどこれが震源かもしれないなあと思う。

しろいろの街の、その骨の体温の

しろいろの街の、その骨の体温の

スクール・カーストのある小説として熱い。少年少女の世界は、オトナがみずからをそこに投影する傾向があって、リアルとは違う仕掛けだと思うけれど、映画「桐島……」のゼロ年代なオトナ風だった中学生たちより、ずっといいと思う。