不機嫌・柔らか・ディーセントは「空気」なのか?

70年代の「不機嫌」な「闘う家長」から80年代のサントリー的な「柔らか」へ、といえば山崎正和。90年代のディーセントなノーベル賞といえば大江健三郎ですが、文学の読者共同体論においてすら「空気」が語られてしまう「国語科の不幸」への違和感をどうしたものかとあれこれ考えるうちに、この人たちが指し示した社交は、たぶん、「空気」とは違う何かだろうなあ、と思うに至る。

山崎正和先生の評伝、というのはあり得ないのだろうか。