複数の音楽性

生成文法は、いかにも冷戦時代の北米の議論という感じがしますが、音楽研究でこれに相当するのが「民族音楽学」なのかなあと思う。

異文化への人類学的な関心や音楽研究の一領域としての比較音楽学はそれより随分前からあるけれど、the Society for Ethnomusicology が北米で結成されたあたり以後の議論のなかでも、メリアムの「音楽人類学」構想からブラッキング(英国人だけれど)の「人間の音楽性」に至るあたりが、生成文法を起動するのに似た「人間の生得能力の探究」だと思う。

小泉文夫の世界音楽への関心は民衆文化の肯定という色合いが濃くて、だからポピュラー音楽論に傾斜していったのだろうし、そこは、データの統計と分析、戦前以来の比較という方法(何故か音楽研究では次第に脇に押しやられる)に徹する柴田南雄と好対照な感じがあって、一方、阪大の山口修先生は、「うち」と「そと」と言い換えることができそうなイーミック/エティックとか、文化の触変、よどみ、というように現象学的な議論を出してやっぱり美学・哲学の人だったんだなあと思わせられる。(そして現象学を「自分探し」に接合して、思春期をこじらせる弟子達を育ててしまった……。)

徳丸先生は、「複数の音楽性の肯定」という経路で音楽学(西洋中心)と民族音楽学を「一般音楽学」に再編もしくは統合できる、というお立場なのですね。

そういう文脈で提唱される「ミュージックス」(複数形)の語は、サブカルチャー系であったり、少数者へのセーフティーネットであったりするタイプの議論と比べると、格段に見晴らしが良い。柴田南雄が開設して道を開いた放送大学音楽講座の嫡子という感じがします。

ミュージックスとの付き合い方 民族音楽学の拡がり (放送大学叢書)

ミュージックスとの付き合い方 民族音楽学の拡がり (放送大学叢書)

この本は、民族音楽学が登場する20世紀後半より前の学問史が全体の半分を占めていて、そこがいい、と思うのだけれど、民謡の発見では、「ヘルダーを広い文脈に置いた研究」として、「音楽の国ドイツ」第2巻への参照が加えられている。新しい研究も読んでいらっしゃるのですね。