闘うソナタ、議論するソナタ

カツァリスは、ショパンのソナタ(の展開部)で男たちがああでもない、こうでもない、と議論 discussion している、と言うのだけれど、考えてみれば、このメタファーは7月政権時代のパリの音楽に似つかわしいかもしれない。武器を持って闘う時代が終わって、議論の時代になったことを認めつつ、ショパンは辛辣な人だから、果てしない議論にウンザリしていたんだろうと思うけれど……。議論を認めつつ、そこにウンザリするのが、第三ソナタと、スラヴの英雄譚のような第二ソナタの違いですね。

ソナタに向き合おうとするときに、シューマンはファンタジーの森に逃げ込むし、リストは、理想主義者風に高みを目指す。そういうのを横目にみながら、ショパンはウンザリして美しい地中海(第2主題)に抜け出してしまうわけですね。

こういう人たちに、それでもソナタを書かねばならぬ、と思わせた元凶がベートーヴェンで、のちにベートーヴェンのソナタは「闘っている」という風に解釈されるようになるのだけれど(武器を手に闘った英雄であるがゆえに、帝国主義時代のドイツ帝国のシンボルになり得た)、ベートーヴェンのソナタを「闘っている」と解釈できるかどうか、というのは、ショパンのウンザリやシューマンのファンタジーやリストの理想主義よりも、たぶん話が込み入っている。

そしていずれにしても、それぞれの音楽が「政治的」かという話とは別に、作曲家であったそれぞれの人物は、その時々の政治に無関心ではなかっただろうなあということは、言えそうな気がする。