東京1964年の「日本代表」意識

関西の動静だけを見ていると、1964年が大きな画期という感じはしないのだけれど、芸術新潮を順にみていくと、1964年にまたもや空気が変わる。巻頭グラビアが泰西名画からはじまるので、一見すると雑誌が保守化したのかと思うけれど、本文では盤石の安定感で内外のモダン・アートが取り上げられるのでそういうわけでもないようだ。

たぶん、アートを、古典から最先端まで丸ごとのジャンルとして、一種の「高級ブランド」として扱う態度だと思う。

実際に高度成長で成功した人たちが応接間に絵画を飾り、高級オーディオ器機を備えるようになって、芸術新潮はそういう人たちが読む雑誌、ということなんだと思う。「みなぎる自信」が誌面から感じられる。

のちに60年代は「夢の時代」と総括されてしまったけれど、前衛の荒波を保守派が押し返した末の誌面ですから、マスメディアの風俗としての60年代を特徴づける浮ついた感じは、あまりない。ニセモノを売りつけられないように鑑識眼を磨くための情報誌という感じがします。

そして妙な記述がある。

1966年日生劇場主催公演で二期会が「ポッペアの戴冠」を日本初演して、記事のキャプションは「モンテヴェルディの日本初上演」となっている。前年の第8回大阪国際フェスティバルでミラノ室内歌劇団が「オルフェオ」を上演しているのだが(1965年4月19、20、22、23日、合唱:関西歌劇団、大阪フィルハーモニー交響楽団)、東京での日本人による上演はこれが最初であると記事本文に書かれている。

なるほどこういう物言いは、大阪の関係者を怒らせますね。

大阪での上演を日本初演にカウントしない事態は、同じ頃、ストラヴィンスキーのエディプス王でも起きた。

大阪を含む「地方都市」での活動は、いわば「国内予選」であって、「日本代表」(=東京)の公式記録にカウントされない、という発想じゃないかと思う。しかも主要キャストが外国人では、まったく日本を代表していない、上げ底ではないか、と。

地方を見下しているというよりも、東京は、戦後「日本代表」の高い意識で都市を整備して、その成果が東京オリンピックであるという自負から来る勇み足だろう。

関西の地盤沈下への危機感とか万博誘致とかという動きには、この辺りの軋轢が関与していたのかもしれない。このままではジリ貧だ、大きな花火を打ち上げよう、ということですね。

後年、東京の言論人自身が、そのような60年代の過剰な向上心を「夢の時代」と総括したわけではあるけれど、自分たちが勝手に気位を高く持って、勝手に反省されても困るのであって、東京から見た東京オリンピックと、同時期の国内の他の地域や外国から見た東京オリンピックの差異、みたいなものは、一度、検証したほうがいいんじゃないだろうか。

80年代に、東京は日本から離脱した世界都市だ、という言い方があったけれど、実はそれは60年代を反復していたのかもしれないですし、このあたりは、どうも、都市と農村、という一般図式や、中央集権という制度だけの話ではないような気がします。

もう一回東京でオリンピックをやろうと言っているわけだしね。

続報あり → オルフェオ日本初演 - 仕事の日記