排気塔とコントロールパネル

東京オリンピック(いちおう芸術展示もあったことになっている)に直接的には反応しなかった芸術新潮だが、1968年から大阪万博関連の記事が出始める。グラビアで太陽の塔の岡本太郎や会場の設計や美術展示を特集するなど、

大阪万博は建築・デザインのイベントである

という位置づけになっているようだ。メタボリズムが登場して、モダニズムからエコロジーへ、というスローガンが打ち出されていたわけだから(「進歩と調和」をその線でデザインしようとしたわけですね)、このイベントを建築・デザインの側からみるのはおおむね今からみても適切な感じがする。

1969年には大阪のモダニズム建築の系譜の特集が組まれて、村野藤吾の梅田排気塔が冒頭を飾っているのは、「おぬし、できるな」という感じがする。

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大阪国際フェスティバルは1957年に第10回記念でバイロイトを再現したわけだが、肝心のヴィーラント・ワーグナーは亡くなっており、時宜を失した感がある。前年にヴィーラント・ワーグナー追悼記事を書いたのは吉田秀和だが、大阪国際フェスのレポートは斎藤十一が面倒をみたことで知られる五味康佑で、吉田秀和は翌年ドイツに行く(「ドイツ通信」1968年1〜12月号)。相変わらず、人がワラワラと集まってくると、プイと横を向いてしまう人である。

音楽雑誌ではちゃんとしたレポートがなされなかった「ノーヴェンバー・ステップス」のニューヨーク・フィルでの初演を芸術新潮は現地取材しているし、小澤征爾によるベルリオーズのレクイエム日本初演(小澤の若い頃の十八番はベルリオーズだったんですよね)のかっこいい写真が載ったり、小澤がトロントからサンフランシスコに移籍したことを報じていたりして、そこらの音楽雑誌より、よっぽどさばけた「国際感覚」が機能していたようだ。

(今の日本のクラシックを特徴付ける国際感覚、「私は日本人である前に音楽の国の住人です」路線の萌芽ですね。)

で、この頃の誌面で、へえ、と思ったのはビル制御の「コントロールパネル」のデザインに着目した記事。

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万博ともども「情報社会」(第三の波)が見えてきつつある感じがします。