「作者の意図」の彼岸

2016年にもなって、「作者の意図」を詮索することを研究目的に掲げている芸術学者はまともじゃなかろう(笑)。しかしながら、まともな芸術学者であれば、実作者の伝記や日記が「作者の意図」の詮索とは別の用途で実に有用であることを思い知っているはずだ。

「作者の意図」の詮索の彼岸に作品研究が営まれている世界(既に現在はそのような世界であるわけだが)とは、どういう世界なんでしょうね。

少なくともその世界においては、「私は作者の伝記や日記を読むのが嫌だから芸術とは別の対象を研究しています」というような「研究者の意図」の彼岸で、芸術研究やその他の研究が営まれているんじゃないでしょうか。

次世代かその次の世代のゲーム学者は、たぶん、有用な情報源として作者の伝記や日記を活用しながら研究を進めているだろうと思う。

自分の研究分野の優位を主張するために、他の分野のベストパフォーマンスとはとうてい言えそうもないダメな研究(の戯画)を引き合いに出すのは、19世紀に逆戻りした「不均衡な比較」です。

あなたが優秀な人間であることはほぼ衆目の認めるところではあるだろうけれど、それは、あなたの取り組む分野が他の分野よりも優秀であることを意味するものではありません。それが「作者の意図」の彼岸を生きる自由というものである。