いわゆる性善説と「読まない」理由

学問は性善説だと言われるが、それはつまり、あるテクストや対象に取り組むことについてはほぼ無際限に自由である一方で、あるテクストや対象に取り組まないこと、あるテクストや対象を排除したり抑圧したりすることを正当化できないシステムだからなのではないだろうか?

学問とは、何かをやらない理由を弁じることのできないメソードだと思うのです。

「オレは○○をやる、××はやらない」と宣言することは、人生の選択として、学問とは別の相において、個人の自由ではありますが。