言論の設計とサイバー国学

最初にとりあえずの不用意な発言がなされて、周囲が無風であればそれがそのまままかり通り、周囲に波風が立ったときには、改めて周到に準備した鉄壁の発言を出し直す。

SNSベースの情報の流通では、しばしばそういうことが起きて、そうすると、実は最初の発言が「本音」であり、外圧によって出てきたあとの発言は「本音」を押し殺した「建前」に過ぎないのではないか、という疑惑がくすぶる。

「裏」と「表」であるとか、「本音」と「建前」であるとか、というような、「昭和的」(脂ぎってオヤジ臭いと言い換えてもよい)とみなされ得るかもしれない観念が装いも新たにサイバースペースに蘇ってしまうのは、情報をやりとりしている場(社会?)の問題(後ろ向きの保守化?)というよりも、さしあたり、情報発信の「デザイン」の失敗に過ぎなかったりするのではないだろうか?

「とりあえず」を先に出して、あとから「詳細推敲版」を出す、という順序・手順は、それが有効な場合もあるが、不毛で致命的な誤解の温床になる場合もある。

(日本の情報強者が「とりあえず手早く」を信奉するのは、シリコンバレーを成功に導いたとされるカリフォルニア・イデオロギーへの抜きがたい憧れ(20世紀末への郷愁?)なのだろうけれど、当のシリコンバレーの情報技術者たちは、多彩な「デザイン・パターン」を駆使して開発を進めていることが知られており、「とりあえず手早く」一本槍ではないよね。)

さてそして、ここでの「とりあえず手早く」と「推敲を施した仕上げ」の区別が、「本音」と「建前」の区別であると読み替えられてしまうのは、そのように情報を解読する者が「自発性=不定形 vs 脈絡参照=類型化」という解釈枠組を信奉しているからであったりするようだ。

人間の「本音」、生き生きと自発的になされた発話は不定形であり、一方、人間の「建前」は、あっちこっちの先行事例を参照して編み上げられた結果、類型的であることを免れない、という信念である。

でも、本当にそうだろうか?

私たちは、詳細に推敲した結果が、とりあえずの創意よりも、はるかに「自然」で流麗にスムーズであったり、とりあえずの創意が類型的であったりする事例を知っているのに、そのような不都合な事実を忘れているだけなのではないか。

あるいは、速攻で急所を突くハイコンテクストな発言、考え過ぎて取りつく島のない独善、というのもある。SNSが当初歓迎されたのは、むしろそういう閃きが膠着を打破する可能性が期待されていたようにも思う。

たとえば、アートとよばれるある種の技術は、そのような一筋縄ではいかない多彩な事例の宝庫のひとつだったのではなかろうか? ミメーシスとしてのアートではないかもしれないレトリックの領域である。

私の誤解でなければ、デザインという概念は、建築、ファッション、工芸、工業デザインがアートの領域として切り出されるより前、むしろ、近世の芸術論の焦点のひとつですよね。アートとよばれる技術が歴史的な諸々の経緯でひとつの領域に括られていく過程で浮上した論点なのだと思います。

(20世紀になって、ジャンルとしての「デザイン/デザイナー」ということが言われるようになったことで、過去の芸術論が読み直された、という面があるかもしれないにしても。)

「本音」と「建前」、「自発」と「類型」という区別は、デザインという概念が見いだされた当時の古典主義/ロマン主義を近代の日本人が都合良く摂取した結果に過ぎない印象がある。そういう意味では、「昭和的」に「オヤジっぽい」だけじゃなく、漢意と大和魂、みたいな感じがなくもない。

言論のデザインは、おそらく、もっと多彩であり得るし、そのような多彩なデザインに先だって、実体としての「本音」や「建前」がある、というのは、受容美学の観点で言えば、原因と結果の取り違えだろう。こういう錯誤を指摘して軌道修正の手がかりを得るには、受容美学=受け手の反応の観察も役に立つ。

「とりあえず手早く」を先に出して、あとから「推敲して仕上げる」、という風な言論の設計は、「書き手の真意」(いわゆる作者の意図だ)という仮象を構成してしまうシステムなんじゃないか、そんなものに自堕落に乗っかってどうするか、ということです。