小言を言う音楽評論家

吉田秀和が「日本人音楽家の運命」(タイトルを間違えて覚えていたので、過去の記事に遡ってすべて直した)を芸術新潮に連載したのは1965年、東京オリンピックの翌年だったんだな、ということを改めて考える。

友人の柴田南雄や小倉朗に煽られるようにバルトークなどを一生懸命勉強して、実際にヨーロッパに行って『音楽紀行』を書き、現代音楽祭の立ち上げに裏方として参加したのに、これが軌道に乗り始めると、「日本とその文明について」という話をしはじめる、という不思議な動き方をしたのが思い起こされる。

日本の洋楽の状態が良くなるようにあれこれ世話を焼くのだけれど、周囲が増長して勘違い気味に調子に乗りだすと、「お前さん、日本はそんなに立派なわけじゃないでしょう、無理をしているんじゃないですか」と水を差す側に回る、という風に見える。

思えば、そろそろバブルへの助走かという頃、ホロヴィッツを「ひびの入った骨董品」と形容したのも、ホロヴィッツに対する批判というより、ひび割れと知りつつ、その最高級品をとんでもない値段で購入してありがたがる日本人に対するコメントですよね。

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かつての吉田秀和のように、日本の洋楽の状態が良くなるようにあれこれ世話を焼く人は今もいると思うし、かつての吉田秀和のようにクラシック音楽を高級ブランド品にふさわしく語り、啓蒙・宣伝する人は今もいる。音楽のことを今の読者に伝わるように上手に講釈したり、ほとんど文体模写だろうというくらい上手に吉田秀和風な「聴き方/書き方」を実践する人もいる。

でも、こういう小言が人目につくところに出ることはなくなったなあ、と思う。

音楽ジャーナリズムだけじゃないかもしれないけれど、糸の切れた風船のようにフワフワした言葉が飛び交うのは、小言が流通しないからなのかもしれませんね。