イベント駆動の現状

現行のコンピュータのプログラミングは、外部からの入力・出力が独特の設計になっていて、数学的に閉じたアルゴリズムとして記述することができない。

たぶんこれは、ゲームの「開始」と「終了」が、出入力という形で、ゲームに常時埋め込まれている、ということなんじゃないかなあ、と思ったりする。

出入力が特別な取り扱いを要するというのはAIでも同様で、先のアルファ碁と人間の対局もそうだっただろうと思うのだが、オペレータが相手の着手を見て、そのデータをAIに入力する作業と、AIの出力を見てオペレータが盤上に石を置く作業は、対局者の持ち時間にカウントされない。

これはつまり、先のGoogleのプロモーションにおいてすら、AIと人間は、直接ガチに対局したわけではなく、将来ガチに対局したらどういう風になるかということを知るための実験として、AIの思考ルーチンと人間を対戦させた、ということだと思う。そしてその場合のルールは、出入力を持ち時間から除外するという形で、AI側に大きな「コミ」が与えられ、連日の対局を敢行して人間の疲労への配慮はなされないという形で、さらに人間側が不利な条件になっていたわけだ。

ことほどさように、出入力という特別設計を、あたかもないことのように扱うと、コンピュータやAIをめぐる議論は奇妙に歪む。

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渡辺裕の音楽機械論は、楽器が機械・道具であることを「うっかり忘れがちな」人々にそのことを思い出してもらう、というスタンスだった。

コンピュータの出入力の話をしないのは、うっかり忘れて盛り上がり、あとでそれを思い出すところでさらに一儲けするための不作為の伏線、うっかりベースのマッチポンプなのだろうか。