ジャポニズム立国の可能性と限界

美術のジャポニズムからアニメのクール・ジャパンまで、視覚表象におけるエキゾティックな差異をナショナル・アイデンティティに変換するのが「ニッポン」の近代のお家芸なわけだが、これは「想像の共同体」という、言論の動員力に着目した新左翼(←今ではオールド・スクールだよね)の見立てとは微妙にズレる感触がある。

(virtuality と fiction を混同する20世紀末の虚構説は、このあたりのズレを隠蔽する翻訳語の錬金術だと私は思う。)

日本のナショナル・アイデンティティをめぐる議論が紛糾するのは、このあたりのズレがあるせいではないか?

ジャポニズム立国のメカニズムは、「想像の共同体」論では解けない気がする。

そして一方で、ミュージクスという複数形が提唱されてしまうように、音楽もしくは聴覚文化は、それぞれの集団・文化・地域の横並びの多様性がデフォルトである可能性が高く、視覚表象におけるほどにはエキゾティシズムが機能しない。音楽もしくは聴覚文化において、差異を掛け金にするナショナリズムが円滑に作動せず、むしろ、「世界はひとつ」と思われてしまいがちなのは、ドラマや物語がそうであるような汎文化的な「類型」(人類学がそれを抽出しようと試みているような)が作動しているからではなく、逆に、差異がデフォルトだからではなかろうか。ミュージクスとは、無限の差異の肯定という「ひとつの世界」であるわけだ。

ドラマや物語のように人類の共有財である可能性が高い表象行為と、ミュージクスのようにほぼ無限に差異化されてしまう表象行為と、美術・視覚文化のように差異から交換価値を生み出しやすい表象行為があって、アートでもカルチャーでもいいけれど、それらを総称して何かを語りうるように思いなすところに混乱が生じているのではあるまいか?

苦し紛れにテポドン風の全称命題を発射する文化自由主義者が愚かに見えるのは、そういうことではないか。(各論としては色々いいことを言える人材なのに、もったいないことである。)