オペラ演出の1973年世代:芸術新潮で三谷礼二を推したのは誰なのでしょう?

芸術新潮1974年7月号の短信欄に、三谷礼二の演出による関西歌劇団「蝶々夫人」の評が写真入りで出ている。

関西歌劇団の歩みのなかでの三谷礼二の取り組みの意味、東京公演が松竹との確執の煽りで実現しなかった1954年の武智鉄二演出との関係など、押尾さんが最近掘り起こした関西オペラ物語と照合すれば、これが驚くほど正確に情報を押さえた記事だとわかるはずだ。

朝比奈隆のオペラの時代―武智鉄二、茂山千之丞、三谷礼二と伴に

朝比奈隆のオペラの時代―武智鉄二、茂山千之丞、三谷礼二と伴に

同じ公演について、吉田秀和が音楽展望に書いて全集に収録されている記事より、むしろ、こちらのほうが正確で、思惑による情報操作の跡がない。逆に言えば、この記事と照らし合わせることで、吉田秀和の関西に関する情報や視線の歪みを正確に検出できる。この記事が匿名で、誰が書いたのかわからないのは、実に惜しい。執筆者はただものではないと思います。

また、この時期の芸術新潮を見ると、匿名の短信執筆者は、毎回実にこまめに三谷礼二の東京での仕事を追いかけて、彼の才気に注目していることがわかる。「三谷礼二は東京で不遇だったから、まるで都落ちのように関西で仕事をするしかなかったのだ」という風説があり、吉田秀和も、この風説を踏まえて、音楽展望で「こんな逸材を放っておくとは、東京のオペラ団体は何をしているのか」と叱るのだが、それは事実ではないようだ。

なるほど、音楽ジャーナリズム(音楽之友社系の)やそれと骨がらみの既存の大手音楽団体・興行関係者が三谷礼二に気付かないボンクラであった可能性はあるかもしれないが、おそらく読者層という点では、音友や音楽芸術(70年代に入ってもクソ真面目な「前衛」の夢を捨てきれないカルト)より、芸術新潮のほうが上等だろう。その網にかかっているのだから、不遇というのは当たるまい。

ここでも、一連の記事を書いて三谷礼二をフォローした人物は誰なのか、ということが鍵を握る。

芸術新潮の匿名短信の歴代執筆者が誰だったのか、掘り起こすことはできないものなのだろうか?

匿名の文芸時評の執筆者の特定は、全部ではないにしても、それなりにできつつあるわけですよね。芸術新潮もどうにかならないのでしょうか?

この時期の芸術新潮音楽短信欄は、毎号のように東京でのオペラ公演を取り上げており、武田泰淳・団伊玖磨の「ひかりごけ」大阪での初演と東京での再演、ミュンヘンの「ばらの騎士」(シェンク演出、カルロス・クライバーの初来日)など、日本のオペラがいちおう軌道にのりはじめたのかな、という感じがある。

どうして日本のオペラがこの時期に新たな段階へ進んだ感じになり得たのか、公共ホールの充実と補助金行政の始まりゆえなのか、歌手・オーケストラの世代交代なのか、もっと別の何かが鍵なのか、そしてそこに三谷礼二はどう絡むのか。私にはわからないことが多すぎるのだけれど、蓮實重彦が映画作家について1973年世代を言ったのに倣って、オペラにおいても1973年は何かの転機であったと、とりあえず、仮に目印を付けておいてもいいんじゃないか、という気がします。

おしゃべりで声が大きい左翼・リベラルな方々がシラケてそっぽを向いてしまったせいで、私たちは、1970年代について、知らされずに放置されたまま今日に至るデータを膨大に抱えているんじゃないかという懸念がある。

70年代はサブカルとオカルトだけで出来ているわけでもなさそうだ。