ロックと演劇:芸術雑誌のなかのロックンロール

芸術新潮は当初からミュージカル・コメディを演劇の枠で扱っている。オペラは音楽だが、ミュージカルは演劇、ということである。この島での慣習に従えば、まあ、そういうことになるでしょうか。

そうして1973年には、劇団四季による「ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター」の初演が演劇欄で取り上げられている。アンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲のジーザス・クライスト・スーパースターを浅利慶太が独自に演出した出し物ですね。

この芸術雑誌でロックがはじめて取り上げられたのは、音楽欄ではなく演劇欄においてであった、ということです。(詳しく調べていないので、誇張した言い方である危険はあるけれど、これまでジャズを取り上げることもほとんどなく、ロックを音楽ジャンルとして語る前提が、芸術新潮という雑誌には、ほぼ皆無だと言ってよいと思う。その事情を印象的にキャッチフレーズ化するとしたら、「芸術新潮において、ロックはミュージカルの劇伴であった」ということになりそうです。「ロックは劇伴としてしか聴いたことがない」というのが、1970年代初頭の中高年芸術愛好者の平均値であったかのようです。)

創刊当初の1950年代にはミュージカル映画が映画欄で取り上げられ、東宝和製ミュージカルが演劇欄で取り上げられて、1960年代のウェストサイド・ストーリーを取り上げたのも演劇欄なのだから、ロック・ミュージカルが演劇として論じられるのは、芸術新潮という「雑誌のなかの世界」では、ごく自然なことだと思いますが、フェスに通ったり、音盤を聴き込んだり、ライブで跳ねておられる洋楽ファンな方々は、これをどのように受け止められるのでしょうか?

ロックというジャンルの社会性については、ポピュラー音楽研究花盛りの昨今、実に多様に語られているのだろうと思いますし、ロックと政治、というお題も、ほぼ、その音楽ジャンルの社会性という案件に回収して処理されているようにお見受けしますが、演劇のなかのポピュラー音楽とその取り扱いは、音盤や放送やライブとは、また違っているようです。

ロックが反抗・反体制であるとは限らない、という風に立論するとしたら、ロックを商業ミュージカルに取り入れることを「敵としてのブルジョワ」による「俺たちの音楽」の「簒奪」とみなすのは難しくなると思うのですが、どういう風に説明したらいいのでしょうか。

(ハリウッド映画においてすら、ポピュラー音楽がサウンドトラックに本格的に使用されたのは、ミュージカルのシンフォニック・ポップスを除けば1960年代のニューシネマからなのですから、ミュージカルがダサダサに遅れている、ということでもないように思うのですが……。)

ロックを、洋楽ファンと一部のボスキャラ言論人の権力闘争から自由な場で語らせて欲しい。

「音楽に政治をもちこむな」はちょっと暴投気味の議論ではあったが、「音楽を党派的なイデオロギーに染めて語るな」というのは、あっていい立場じゃないだろうか。