芸術における「今太閤」の時代

どこから書けばいいのか決めかねているのだが、とりあえず、武智鉄二はつくづく不運な人だと思う。

古代史ブーム/地方の時代/日本の伝統の見直されるべき故郷としての関西(そしてほんのりオカルト)という1973年以後の芸術新潮の路線は、1950年代に大暴れした武智鉄二が復活する好機だったのだと思う。何もかもが、彼の長年の主張に好都合で、実際、日本オペラ協会でかつての関西歌劇団創作歌劇の再演に着手して、その流れで1976年には同協会が谷崎潤一郎原作の歌劇「春琴抄」を制作する。

ところが、同じ1976年4月から、芸術新潮はまたもや大幅に誌面編成が変わってしまう。各ジャンルの短信を載せる「芸術新潮欄」が、ほぼ美術のみを取り上げる形になって、オペラ・コンサートのレビュー記事は消滅。吉田秀和「今月の一枚」も同年7、8月のベルクのヴァイオリン協奏曲(異例の前後編2回続き)で終了する。再びオペラ演出に乗り出しつつあった武智鉄二を取り上げる場がなくなってしまったわけだ。

何が起きたのか?

李朝特集をはじめとする骨董への関心、オークション情報の掲載、といったところが目に付き、芸術を投資の対象、不動産に似た「資産」(ストック)と捉える方針を打ち出したような印象がある。もし、そうだとしたら、花火を打ち上げてお金を使い切ってしまう舞台パフォーマンスは見捨てられても仕方がないかもしれない。

実際、1977年2月に長く続いた「ぴ・い・ぷ・る」欄と短信をミックスしたような「スターダスト」というコーナーが出来るまで、半年くらい(公演案内とオーディオ・レコード関係以外の)音楽情報が載らない状態が続く。

同じ1977年2月から12月まで音楽コラムを寄稿するのが黛敏郎だ、というのも、芸術を「資産」と捉える資本家体質の読者に一番受けそうな人が抜擢された感じがします。(吉田秀和は、1977年10月にカンディンスキーについて単発で書いただけで、そのあと一切出て来ない。)

古代史・骨董ブームが露骨な資本家体質(要するに社長の道楽)に帰結するのは、どういう背景があるのか、最初に思いついたのは安宅コレクションのことで、その種の社長の道楽を誉めてヨイショする雑誌になったということなのかなあ、と思ったのですが(10大総合商社のひとつとされた安宅産業の経営破綻が1977年)、もっとわかりやすく、1973年から1976年をひとつの時代と括ることのできそうなトピックがあることに、さっき気がついた。

1973年は田中角栄が総理の座を射止めた翌年で、ロッキード事件は、退陣後の1976年2月に発覚するんですね。同年7月27日に受託収賄等で逮捕。

古代史・骨董への関心が資本家体質に帰結する芸術新潮の4年間は、田中角栄が総理になってから逮捕されるまでの時期で、要するにこれは、芸術における「今太閤」路線だったようだ。

で、確認してみたら、田中角栄は1918年生まれだから、大栗裕と同い年。(これは、田中角栄がバーンスタインやアロイス・ツィマーマンと同年生まれ、ということでもあります。)

角栄は「若さ」が売りだったけれど、1972年7月の総理就任当時54歳だった。

前任の佐藤栄作は1901年生まれ。ライヴァルの福田赳夫が1905年生まれなので朝比奈隆(1908年生)の3つ上、三木武夫は1907年生まれ、大平正芳は1910年生まれらしい。

吉田秀和が1913年生まれ、芸術新潮を1950年代後半に保守の側へぐっと引きよせる役割を担ったように見える福田恆存が1つ上の1912年生まれなので、芸術新潮は、55年体制の自由民主党とともに歳を重ねるかのようにして、1970年代には、同時期の自民党の派閥の領袖たちと同世代が執筆する雑誌になっていたようです。(新潮社の齋藤十一も1914年生まれですね。)

角栄の登場で「俺たちの時代が来た」と思える世代の人たちの雑誌だったんですね。