芸術新潮にとってアートはおそらく非日常ではない

芸術新潮が創刊当初の1950年代から建築・写真・工業デザイン・ファッションをアートの領域として扱ってきたのは、アートを「日常」と地続きの位置、日常に埋め込まれた何かとして取り扱おうとしたとみるのがいいんじゃないか。週刊誌的なスキャンダルに積極的に切り込むのも、同じ姿勢の表れとみるのがいいんじゃないだろうか。

この姿勢がその後も維持されたと考えてみてはどうか。

この雑誌は、1960年代に、大阪万博がアーティスティックに計画され、あまりアーティスティックではない「イベント」になっていく様子を活写できた一方、オリンピックによる東京の変貌を直接的に描くことができなかった(たとえば、私の記憶違いや見落としでなければ、この雑誌は、今や昭和30年代の最大の記念碑と見られている東京タワーを主題化したり、シンボリックな図像として紙面に掲載したことは一度もない)。日常のなかでアートを捉える姿勢ゆえに、大阪の出来事を他人事として見物することはできても、東京の変貌は、みずからがその渦中に巻き込まれる現実であり、リアルタイムな対象化が不可能であったと解釈できそうに思う。

そして1980年代である。

1970年代「今太閤」時代を経たアートの「資産」化や、1980年代の「記号消費」への離陸にこの雑誌が俊敏に対応できたのは、日常と地続きの位置でアートを捉えていたがゆえであり、浮き世離れしてあとから振り返るとバカバカしいようにも思えた都市生活の変化は、「非日常」というより、新しい日常だったのかもしれない。(なんだか田中康夫みたいだけれど。)

同じ時期に「音楽」を見限ったのは、「音楽」がもはや既にそのような日常の推移との接点を致命的に喪失して宙を舞っており、この雑誌のスタンスでは、その位置や動きを捕捉できない「圏外」だと見なされたからではないだろうか?

(「音楽専用ホール」なるものの出現は、もはや圏外の検出不能なブラックホールと化してしまった「音楽」の位置を「闇」として指し示す指標かもしれない、と思うのです。ウォークマンの登場は、2016年におけるポケモンGOと同じように、新しげだが小賢しい小手先のトリック、子供の遊びと思えたのだろうし。)

しかし、それならそれで、ここは大胆に発想を転換してアートと別れて、「音楽」は別の道を歩んでもよかったのではなかろうか、というより、「音楽」の主流は、むしろそのようにして今日に至っているのではなかろうか? アートと距離を置き、1980年代の暴走しつつあった東京という都市の文化と一蓮托生にならずにすめば結構なことだし、実際「音楽」のその後の歩みにはそういうところがあり、それで不都合はなさそうに思えるのです。

音楽が複数形になり、アートもまた、近世以前にそうであったように、再び複数形になる。

たぶん大きな流れとして、21世紀はそういうことになりつつあるんじゃないでしょうか。

庄野進の「聴取の詩学」は、ジョン・ケージとアイドル(WINK)を同列に扱う視点を打ち出す書物であり、渡辺裕の「聴衆の誕生」は、マーラー・ブーム、おしゃれな音楽専用ホール、CDの表層的な聴取などのサブカル路線と、「第九」合唱の土着化を同列の横並びに論じた。「音楽」は、急速に変貌しつつある日常に飲み込まれつつあるんじゃないか、その様を全肯定していいんじゃないか、という主張だったように思う。(そしてその後、庄野進は「音楽デザイン論」に向かい、渡辺裕はポピュラー音楽研究者を育てることになる。)

なるほどそれは、この島でアートを取り扱うときの作法を適切に踏まえた視点であり、「音楽」がアートであり続けようとするのであれば、そのようなことになるであろう、という予言的な主張だったかもしれない。

でも、一方で1980年代のこの島の「音楽」の現実は、まだ、そこまで言えるほどではなく、むしろ正反対かもしれない動き(例えば「国際化」を「音楽の国」の空想的コスモポリタニズムに読み替えるというような)がある状況で、やや強引に予言を自己実現するようなところがあったように思う。

そして他方で、芸術新潮の1950年代以来の歩みと実績からすると、今こそ夢から覚めるときだ、というような主張を、「気鋭の若手学者」による「斬新な提言」であるかのように主張されても鼻白むばかりである、という反応があり得ただろうことが想像される。

性急ではあっても未来予測としてはおおむね正しく、最先端に躍り出る優秀さはあるけれども、先行事例との結びつきや経験が乏しく、それゆえに、どうしようもなく青臭い実装になって周囲との軋轢を生む。

私は、東大という知識エリート養成機構がこういう人材を世に送り出すことを「光クラブ」的だと思ってしまうのですが、芸術新潮的なスタンスは、週刊誌的であることをためらわないジャーナリズムであったがゆえに、「東大・光クラブ」に対して強力な免疫があり、そこが強みだったんじゃないかなあ、と思うのです。

この見立ては、おおむね見田宗介の「理想の時代」「虚構の時代」の区別と対立しないし、「理想」と「虚構」の間の70年代を「資産の時代」として独立させたアップデート版みたいなものだろうとは思う。

話の勘所は、それじゃあどうして見田宗介にそういう見立てができたのか、ということで、たぶん彼は、「理想」や「虚構」をそのようなものとして眺める視座として、ジャーナリスティックなものに一方の軸足があるだと思う。そして学者にそのような視座を提供できる程度に、ジャーナリズムが機能していた、ということだと思う。

(次の宮台真司や大澤真幸の90年代には、そういう視座が崩れて、代わりに宗教が出てきてしまうわけだが。)

そして「光クラブ」である。

東大から「光クラブ」的なものが出てくるのは、問題としては既知であり、それにもかかわらず治らないのは、世間がそのようなものを東大に期待するからである、とされてきたように思う。でも、そうだとしたら、「世間」の側で、知識への期待や知識エリートの取り扱いを変えていくのが早道なのだろう。文科省という東大っぽい官僚にやらせるのは自家中毒だが、おおむね「世間」は、そういう風に動いているのではなかろうか。私たち自身は、この件に関して「世間」の側にいるのだし……。

青の時代 (新潮文庫)

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