「音楽の国」vs「複数の音楽」

消費の肯定を前面に打ち出してアートの世俗化・日常化に向かったように見える1980年代を経て、そのような動きに学問的な裏付けをあたえることを目指したはずのカルチュラル・スタディーズ、ニュー・ミュージコロジーが上陸した1990年代のこの島のクラシック音楽は、どうして、「音楽の国」というアジア人にとっての約束の地を夢見る空想的コスモポリタニズムを強化・温存して、複数の音楽(ミュージクス)の定着に失敗したのだろう?

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

ゼロ年代のこの島の美学者が、三部作+番外編計4冊の大著を要するほどに膨れあがった1990年代のツケを不良債権のように処理せねばならなかった不幸の芽は、実は1980年代にあったのではないか? アートが「音楽」を見限ったときに、私たちには「音楽専用ホール」(バイロイトに似た現代ニッポンの音楽の聖地)に立てこもるのとは違う対策があり得たのではないか?

「音楽」を扱わなくなった1984年の芸術新潮で、音楽専用ホール特集とは別に、もうひとつ、猿之助(もちろん先代三代目である)のオペラ演出に関する記事というのがある。猿之助の連載の一環なので、「音楽」の記事ではないけれど、ちょっと気になるところではある。