「音楽の国」の妖精の言語

兵庫県立芸術文化センターのブリテン「夏の夜の夢」 - CLASSICA - What's New!

東条氏のヌルい感想と読み比べると興味深い。

ここではさらっと通り過ぎられているけれど、オベロンの妖精界が日本語、アテネの人間界が英語、というのは、東条氏が劇場関係者からの伝聞めかして書いているように「英国人の演出だからそうなった」「逆でもよかったのに」ということではなく、交換できないと思う。

「音楽の国」の妖精は日本語(そして必要であれば英語も話すバイリンガル)で、一方、現実の人間は英語を話す、というのは、「音楽の国」の不可逆の構造であって、いつか逆転できたらいいのにね、とか、そういうことではないと思う。

(現実世界には日本語を話す外国人が当然たくさんいるけれど、「音楽の国」という表象は、そういうのを反映しないところで成り立っている気がします。善し悪しではなく。)

その上で、今回見ていてちょっといらだたしかったのは、このあとこの人物は何語で歌い、語るのか、ということを予期させるものが舞台上に何もなくて、実際に歌い語りはじめてしばらくしないと、「ああ英語/日本語だったのか」とわからない状態だったことだ。

外国人が英語で歌うのは、しばらくすると慣れるけれど、日本人が歌い始めても、しばらくしないと日本語には聞こえてこなかった。

野田秀樹のフィガロでもこういうことが起きたのだろうか。たぶん、あの人が井上道義と組んだのであれば、こういう初歩的な不作法はなかっただろうと想像されるのだが……。

字幕を含む演出の配慮がこの点に関して何もなかったことと、そしてなにより、実際に公演中に頻繁に英語と日本語をモード・チェンジしながら指揮していたはずの指揮者が、これといった姿勢を打ち出さなかったからだと思う。

児童合唱はいいのだけれど、大人の歌手がオペラの舞台でオーケストラ伴奏で日本語を歌うときに、どういうことが必要なのか、「発音・発声」だけの問題ではないノウハウが、日本のオペラに字幕が導入されて30年で、急速に失われつつあるのだとしたら嫌だなあ、と思う。

(野田秀樹や井上道義は、字幕スーパーのないオペラ・劇場で育った世代だし、佐渡裕だって若い修業時代はそうだったはずなのだが……。)