1980年のリヒャルト・シュトラウス

芸術新潮がB5判だった最後の年1980年の「オーディオ」コーナーに柴田南雄が毎回見開きのコラムを書いている。

アリランの歌、沖縄民謡などワールドミュージックの先駆けなのかもしれない新譜レコードや、伊勢神宮の御神楽を見学した記事など、彼の当時の関心事で、70年代の芸術新潮のディスカヴァー・ジャパン路線にも合いそうな話題が毎回続くが、11、12月の最後の2回はウィーン国立歌劇場来日公演の感想を熱く語っている。

なるほどこういう論調は80年代の「われら昭和世代」には受けないだろうな、「音楽」終わったな、と思う反面、よく考えてみると、結構恐るべき話かもしれない。

1979年にコヴェントガーデン、1980年にシュターツオーパ、1981年にスカラ座がいずれも初来日なんですね。私は16歳高校一年のときのスカラ座をテレビで観ただけだけれど、前年のウィーン国立歌劇場は、「フィガロの結婚」とともに「サロメ」「エレクトラ」「ナクソス島のアリアドネ」を上演して、これに柴田南雄は大きな衝撃を受けている。「エレクトラ」を知らずにシェーンベルクやベルクを語ってしまっていた自身を含む日本の作曲家の無知を反省して、「エレクトラ」に比べたら、「ヴォツェック」や「ルル」は普通のオペラの作り方をしているじゃないか、と結ぶ。1980年の認識はこういう感じだったんですね。日生劇場で1960年代にベルリン・ドイツ・オペラがサロメを上演してはいるけれど、それだけではオペラ作曲家としてのリヒャルト・シュトラウスの真価はわからなかった、ということのようです。

既に1974年にはバイエルンの劇場が「ばらの騎士」をやっていて、88年には「アラベラ」(これは大阪で観た)、92年には愛知県立芸術劇場こけら落とし公演として猿之助演出の「影のない女」と続く。

リヒャルト・シュトラウス:歌劇《影のない女》 バイエルン国立歌劇場 1992年 [DVD]

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70年代に日本のオーケストラは随分安定して、オペラも色々な作品に挑戦して、それを芸術新潮が好意的に取り上げてきたけれど、実際に外来引っ越し公演をやってみたら、これは全然あかんやん、ということで、その決定打がウィーン国立歌劇場によるリヒャルト・シュトラウスだった、ということのようですね。

1980年に20歳だった岡田暁生がリヒャルト・シュトラウスの人になっていくのは、こういう世の中の動きが背景にあったんだなあ、というだけでなく、まだ家庭用ビデオもLD、DVDもないこの時期にオペラに魅せられた人たちにとって、80年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと浮かれるなどとんでもない、途方もなく大きな課題・宿題が残っているぞ、という心境だったのかもしれない。

90年代以後の「日本オペラの第三期」から振り返ると、「音楽専用ホール」に立てこもるよりも、リヒャルト・シュトラウスを意識しながら、それどころじゃない、と思ってできることを少しずつやるほうが、長期的には、正しい80年代の過ごし方だったのかもしれませんね。若杉弘も長木誠司も岡田暁生も、たぶん、そうだったんだろうと思う。

オペラは、サラリーマン的ポストモダンの手に負える代物ではなかった。

オペラの20世紀: 夢のまた夢へ

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