オペラの字幕とアンチ音声中心主義

びわ湖ホールのドン・キホーテは演出家自身が字幕台本を作って、それを投影していたが、会話のシーンで、しばしば、

「人物Aの台詞」
「人物Bの台詞」

と、まとめて2行出すようになっていて、あれはリズムが悪い、と思った。先のブリテン「真夏の夜の夢」のようにテンポ良く会話が進む作品であれば視線の移動が少なくて、そういうやりかたもいいと思うが、マスネは伝統的なオペラの作法で台詞をゆったり歌わせるので、2行目になかなかたどりつかないし、人物Aがまだ歌っているうちに人物Bの返答が先にわかってしまって、興を削ぐ箇所があった。

今回はふだんのびわ湖ホールの公演とは字幕の制作・操作のスタッフが違っていたようで、いつものノウハウを生かすことができなかったり、何か事情があったのだろうか?

(対話の字幕を細かく割ると事故が起きやすくなるので、慣れたスタッフじゃない場合は恐い、とか、色々ありそうだ。)

字幕ということでついでに言うと、今回のことではないけれど、劇場で大写しになる字幕と、DVD等の字幕は、たぶん、色々違うはずですよね。

劇場の客席にいるときには、辺り一面に観たいものが山ほどあるわけだから、字幕を読むことに集中していられない。飛び込んでくる文字を咀嚼したかしないかのタイミングで視線を舞台に移したり、舞台上で何か予期せぬ「表現」があったときに、今何を言ったのか、とあわてて視線を字幕に移すとか、そういう感じになる。

自宅の大画面といっても映像と字幕を同時に視界に収めることができる環境とは、視線が全然違うと思う。

比喩的には、劇場の字幕とDVDの字幕は、オペラのオーケストラと室内楽くらい違うんじゃないかと思う。

(ヴェルディの椿姫でメインテーマを弦楽器が3声部2オクターヴのユニゾン(のちにチャイコフスキーがシンフォニーに導入したような)で朗々と歌うのは実に効果的だけれど、同じことを弦楽四重奏でやったらバカだと思われる。椿姫終幕の手紙の場面のヴァイオリン・ソロのバックで息を潜めるトレモロの和声法を第1幕のアルフレッドの熱烈な求愛と比較すれば、ヴェルディがバカじゃないことがわかる。そしてモーツァルトのオペラ・ブッファが当時としては破格に「音の数が多い」アンサンブルを要求すると言っても、オーボエ四重奏曲の冒頭のように、ほとんど1拍ごとにオーボエとチェロとヴァイオリンがお互いにキューを出して、パスを回す、みたいな無茶を強いているわけではない。)

学者が作る字幕は室内楽的になりがちで、通訳に長けた人(とりわけ同時通訳の経験があるような人)は、劇場で1000人の観客の瞳に適切なタイミングで言葉(文字)を届ける訳文を作るのが、むしろ学者より上手かったりする。

東京芸大と引っ越し公演の呼び屋さんたちが牽引した日本のオペラの「第二期」は、正しい本物、を志向するところがあったけれど、日本のオペラが「第三期」に入ろうかというタイミングで1980年代にはじまった字幕という仕組みは、もう一度、劇場というものを考え直すひとつの糸口かもしれない。

もう一年前のことで、オペラではないけれど、ずっとオペラとつきあってきた長木誠司さんの監修で、ツィマーマンのレクイエムが、ほぼ「字幕アート」と言うべき目覚ましい公演になったのは、やっぱり偶然ではないんだろうと思う。

字幕は、アメリカなどで行われていたのを日本の劇場がマネして、今では世界各地の劇場に導入されているそうだから、日本だけのこと(欧米語を使用しない民族の宿痾のようなもの)ではない。例えばコンヴィチュニーが、神々の黄昏の幕切れで、字幕を舞台の「主役」に押し立てて騒ぎを起こしましたよね。(「魔笛」でも、コンヴィチュニーは字幕のメッセージで遊んでいた。)

考えてみれば、字幕というシステムは劇場の舞台に「文字」を持ち込むことであって、語りと歌という音声の回路でしか言語と結びついてこなかった劇場という場所に、はじめて本格的・恒常的に「文字」が持ち込まれたわけですね。字幕の登場で、劇場においては、「音声中心主義」なる幻想があっけなく崩れたわけだ。劇場という場のあり方に鋭敏な人たちが、ここに着目しないはずがない。(気がつかないのは、劇場人として、ちょっと鈍感すぎるかもしれない。)

日本でオペラをやる場合には、漢字の扱いが鍵なのかなあ、と思う。

岩田達宗(兵庫芸文の「藤戸」)は、ダイレクトに背景に漢字を大写しにしていたし、ローム・シアターのフィデリオで、三浦基が漢語をナレーターに連呼させる場面は、エヴァンゲリオンの黒バックで踊る明朝体に相当する効果を生んでいたように思う。

それが、この島でオペラをやる、ということなのだと思う。字幕が無色透明になることは、おそらく原理的にありえないのだから。

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視覚表現に文字を組み入れるのは、「マンガの国」の得意技なのだし、どんどんやるのがよさそうですね。