「風景の発見」説と人称論の効力

この時憲法九条は、柄谷が言文一致によって成立させたと指摘する「風景」「内面」「告白」の制度と対応させて考えることができる。柄谷は、近代文学が三人称客観文体を言文一致において確立したことを、「語り手の消去」として批判的に分析している。「語り手の消去」とは主体性の消去であり、物語を「風景」の「描写」に解体するものと言えるが、日本国憲法にも同様の「語り手の消去」が起きている。

柄谷行人『日本近代文学の起源』に「語り手の消去」や小説の人称の話題が出ていた記憶はなかったので読み返したが、言文一致が「内面」を生み出した、と論じる際、彼が着目するのは「文字」(の象形・視覚性)や「韻律」、エクリチュールの不透明性と音声中心主義の透明性、という議論であり、「三人称客観文体」が「語り手の消去」である、というような議論(たぶんこの議論は粗雑過ぎる)は出て来ない。

(1) 語りにおける話者や人称は、語りの「視点」(と「焦点」←この概念は論争の火種のようだが)の問題としてホットな話題であり続けてはいるけれど、1970年代の柄谷行人(とその周囲)にこの論点はない。

(2) 新旧憲法の文体を「文学」の問題として語るのはいいとして、法律が一人称で綴られない、というのは、新旧憲法だけのことではないのだから、勇み足に思える。

(3) 天皇が臣民の前で自らを「朕」と呼称しなくなり、だとすれば彼は自らを何と呼称するのか、という天皇の人称の問題は、現行憲法下で、ひとつの注目点ではあるかもしれないけれど、この話題は『日本近代文学の起源』が提示した論点の範囲を超えている。柄谷行人はバイブル The Book じゃないので、そこに何もかもが書いてある、という風に考えるわけにはいかない。

それはともかく、ネット民が画面に映るアイテムを次々解析したのは、天皇のメッセージをワイドショウの有名人の記者会見のように眺めて、小保方さんのファッションやアクセサリーを語るようにあの会見を消費した、ということなんでしょうね。彼らには、「内面」の「告白」という制度を迎え撃つ「ポストモダン」の陳腐化した常套手段しか持ち駒がなかったわけだ。

現天皇は近代人だと思うけれど、2016年8月8日のメッセージで「内面」を「告白」したわけではない。