「シン・ドイツ」の起源

ナショナリズムとインターナショナリズムの矛盾をエネルギーに変換するのが近代ドイツという表象(古代・古典時代が存在しない辺境地域に「神話」を語りうるかは一考を要する問題だろう)だとしたら、21世紀のドイツは、アングロ・サクソンやその子分たちが何を言おうと平然としている中欧のタフな国というイメージがある。(強面の物理学者が柔道八段の元KGBと渡り合う図ですね。)

そのような「シン・ドイツ」(流行りに乗った表記にしてみた)の起源は、近いところでは案外、敗戦後の西ドイツにあるんじゃないかと思うのだが、それじゃあ、ドイツ連邦共和国という表象の来歴をどのように記述したらいいか、となると、「近代ドイツという表象」を括弧に入れて、ユーラシアの歴史をもう一回やり直さないといけなくなるかもしれない。

ドイツ連邦共和国で断トツに偉い音楽学者は、おそらく民族音楽学(世界音楽?)のヴァルター・ヴィオラだろうから、まあ、それくらいのスケールの話になっても不思議ではなさそうですね。

ヴィオラとは別に、かつてケルンには東洋音楽研究のボスのような学者がいて、その人を頼る留学生がいたようだ。ヴィオラは立派な学者だったけれど、ドイツの大学現場の民族音楽学教員は、1990年代になっても、フィリピンにしか行ったことのない人が日本音楽を講義するとか、全般的には、どうかと思うところもあったらしく、留学生たちがよく文句を言っていた。ケルンのボスは、そういう連中を束ねていたのでしょう。

ライン川の少し上流のマインツ(大聖堂があるが、20世紀に自動車メーカーOpelの城下町になり、ブルーワーカーがたくさん住んでいるところが対岸のカジノとオペラ劇場のあるリゾート、ヴィースバーデンとは好対照)にはドイツ中央放送ZDFやドイツの学術会議相当の機関があって、北米流の新設校として創られたマインツ大学で音楽学者のマーリンクが出世したのは(=国際音楽学会の会長になった)、そのあたりのコネクションとも何か関係があったのかもしれない。あれは政治家だ、と学生達が噂していた。

(大崎滋生と西原稔はマインツでマーリンクに受け入れてもらっていた。)

地方分権は、地方の小ボスがいきなり連邦の中枢に食い込めるルートを作ることでもあり、所詮は人間のやることですから、もちろん、バラ色に良いことづくめというわけにはいかないようではあります。それを含めての「シン・ドイツ」だから、やっぱり「近代ドイツの表象」とは色々ズレる。

マインツでは音楽学が歴史学部に属し、これとは別に、音楽実技を学ぶ音楽学部があった。音楽の高等教育が、コンセルヴァトワール(Hochschule)ではなく、大学(Universität)の学部として行われていたわけで、これも、昔からのドイツの大学とは違っていた。チェリビダッケは、この音楽学部で指揮者のマスターコースを担当していた。(井上道義もそこで学んだことがあるようですね。)ミュンヘンやベルリンの Musikhochschule には、彼を受け入れる場所がなかった、ということでもあるのかなあ、と思う。

そういうラインラントが西ドイツの「首都圏」だったわけだ。

(そういえば、戦後西ドイツの人文学の業績として話題になるヤウス、イーザーの受容美学も、コンスタンツに創られた戦後の新設大学が拠点だったようですね。「近代ドイツの表象」とはズレる西ドイツ的なものは、それと認識されずに、結構、私達の周囲に生きているのかもしれません。日本でも学生運動が華やかだったころには、68年のドイツの学生運動とか赤軍とか、「ドイツの戦後」がいかに「近代ドイツの表象」と違っていたか、むしろ、色々情報が伝わっていたに違いないので、今さらもう一回この話からやり直すのか、という感じではありますが。)

西ドイツ時代には息を潜めていたエリート主義的な「近代ドイツの表象」が対外的なシンボルとして息を吹き返す一方で、復興と経済成長を牽引していたはずの地方分権民主主義的な「シン・ドイツ」が、あたかも野蛮なゲルマン魂であるかのように不可視化される、という(他人事ではないかもしれない)捻れ・反転が、ひょっとすると、21世紀の統一ドイツにはあるかもしれない。