学校の大人たちと学校の子どもたち

知識と経験の性急な合一が「リア充」として祝福されたり、知識に邁進する人々が、陰でヒソヒソと、経験を誇示する人々の悪口を言ったりするのは、成人版スクールカーストなのかもしれない。

とはいえこれは、大人が子どもを模倣する未成熟な状態(近代日本は○○歳だ、みたいな)ではなく、平成の子どもたちが平成の大人たちを模倣した状態のパースペクティヴが転倒してそう見えているのだろうと思う。

(井上雅人氏は、元役人で現在は何々大学の××氏のかくかくしかじかの講演は、以下の点に疑問があった、と、名前を挙げて具体的に議論をなさればいいのに……。現場の教員は、個人の「お気持ち」として、文科省に不満が色々あります、と表明されても、大学は国民統合の象徴や国家の象徴ではないので、周囲は何もやりようがない。)