男子臭い人々

ゼロ年代的なものというと、オタクがその代表であるかのように言われるが、いわゆる「意識高い系女子力」も、反動的でナショナリスティックな閉域に立てこもって頭打ちなところはオタクと表裏一体だと思う。

ホモソーシャルに若い頃の甘美な体験を反芻しながらオタク的セカイに忠誠を誓うのではなく、右斜め上から「意識高い系女子力」を善導する、というのは、21世紀の美学・感性学の用途として有望な気がするのだけれど、どうして「人文系」にはそういう柔軟な発想がないのだろう?

口をついで出てくる語彙や発想のどうしようもない「男子臭」への無自覚。今は、湘南の太陽族イシハラではなく、芦屋出身国際派の小池さんが首都の知事になる時代なのにね。

(ワーグナーからリベスキンド、より、ソルジューニツィンからウクライナ、というほうが、やっぱり冴えてると思うんだよね。関学を中退してエジプト大学卒業という経歴も、東大・慶応をありがたがるお受験文化の右斜め上をいってると思うし。)