友情とは何か?

ロックやポップスのサウンドがどのようにして「尖る」のか、ということについて、部外者のいいかげんな論評は役立たずである、と日頃から苛立っているのであれば、役に立つ対案の議論を組み立てればいいだけのことだ。

私は、ニッポンのクラシックは、どうやら内側からシロアリに喰われて崩れてしまいそうだから、そろそろ骨組みから検査したほうがいいのではないかと考えていて、それは、要するに手前どもの家の改築みたいな話であり、他所様のことはさしあたり知らぬ。そちら様はそちら様で好きにすればいい。

まさかとは思うが、自分の敷地内の家の改築をするのに、いちいち、隣近所にお伺いを立てねばならぬ、とか、そんなヤクザな思い込みから、ロックやポップスの住人がクラシック音楽の動向を常に監視している、などということではないですよね。それはどこの隣組なのか、と当惑するしかない。

(もしかすると、私が吉田寛の名前を出したので、友人として一言いっておかねば気が済まぬ、みたいなことがあるのかもしれないけれど、彼が改築に当たって使える出入り業者なのかどうか、というのは、これもまた、君たちの「友情」なるものとは全く関係のない話である。)

[ちなみに、私は「どうすれば次の日本音楽学会役員選挙で増田聡を落選させることができるのだろう」というはかりごとを片時も忘れてはいませんので念のため。]

追記:

谷口氏の耳がいいのは自明だし、増田も、たぶんそこそこ聞こえているのに、不勉強とか東京コンプレックスとか気が小さいとか色々あって、それで屈折して何かよくわからないことを言っちゃうのだろう、と私は思っている。輪島や大和田のように、「個体値」(←P用語)のいいのが順当に育った事例が周りにあると、ますます策を弄したくなってしまうのかもしれないけれど、岡田暁生だって、よく観察してみれば、自分が好きなものをガリ勉で理論武装しているだけで、彼の「耳」には明白な得手不得手がありアンバランスだ。(そこが伊東信宏とは違う。)日々かなりの努力で補正して今日に至っていると思うけれど……。

自分に何が聞こえていて、何が聞こえていないのか、ということは、隠したり否認したりしないで、素直に認めるところから物事を組み立てたほうがいい。