耳が悪い=勘が悪い

「音程を聴く」というのは、聴覚を研ぎ澄ます、というより、聞こえを遊び(ゲーム?)が活性化するような仕方で(ときには視覚的・図像的であったり言語的であったりするような)記号と結びつける方法のことであって、その意味では、「耳が良い/悪い」と言われる事態は、「勘が良い/悪い」という事態と隣接しているかもしれない。

(聞こえていないものを「遊び/ゲーム」として運用するチャッカリさんは、「勘が良い」という稜線の「耳が良い」とは反対側の斜面と言うべき「要領が良い」に分類されてしまいそうだが。)