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オタクと放送

「遊戯と教育」の続き。

  • 放送歌謡(ラジオ歌謡) vs レコード歌謡
  • 教育映像 vs 娯楽映像

という対比に「親米グローバリズム」と「なんとなくリベラルな愛国」の対立(対比?)を重ねることができないかなあ、と思いついたのだが、そのような図式の来歴を考えるのは面倒かもしれない。

ただ、現状の表面的な観測として、戦前の放送歌謡(軍歌愛国歌的なものも含まれる)や戦後の放送コンテンツをレコード歌謡・娯楽映像と同じ作法でデータベース消費するのは、そこに存在したはずの教育機能を隠蔽もしくは否認するオタク的想像力の末期症状、ゼロ年代的なものの断末魔なんだろうなあ、という感じはある。

あと、オタク少年がどうして視覚文化論・聴覚文化論のアーティスティックな見巧者・研究者に「転向」できてしまうのか、ということを考えるときに、昭和期であれば放送(テレビ東京で映画に目覚めた町山とか)、平成期であればビデオゲーム(東大美学界隈の視聴覚文化論はひょっとするとこれではないか)が、対立しているかのように見えるものをつなぐライフラインとして機能したところがありそうに思う。

東大教養部・表象文化論的な高等遊民の文化資本の高さに馴染めない学歴エリートのための「胸アツ」系オルタナティブだ。

実存のかかったライフラインだからこそ、文化の「教育機能」を語りがたいのではないか。もうおおっぴらに語ったほうがいいと思うのだけれど。