終局の作法

八方ふさがりで打つ手なしの状態を(やや自嘲気味に)「詰んだ」と将棋用語で宣言する発言を最近SNSでよく見かけるような気がするのは、単に私がP情報を求めて、これまで足を踏み入れなかった領域をウロウロしているからだろうか。

「ゲーム的」だったのかもしれないゼロ年代的なものが「詰む」事案が頻出するご時世である、というようなことを、ひょっとすると言いうるのかもしれない。

売り出し中の若手の華やかな仮説が中年期・老年期に「詰む」、というのは、知・学問というゲームにおいては、このゲームの性質上、ごく普通に起きる日常に過ぎないとは思うけれど。

(知・学問は、この種の盤上ゲームのようにルールに従って「ここで終局」というのが一意に確定するとは限らないが、盤上ゲームのプロのプレイヤーには、これ以上悪あがきしても無駄、と決したところで自ら負けを宣言する作法がありますね。最近の AI は当然のようにこうした「投了」機能を学習しているらしいので、「投了」が人間固有とは言えないかもしれないが、21世紀の社交SNSで自ら「詰んだ」と宣言するのは、終局の作法として案外筋が良いかもしれない。)


囲碁では、それなりのスペースを確保して勢力を誇っていた一群の石が、目を2つ確保できずに相手に取られてしまうことを「頓死」と言うが、この言葉は別に囲碁特有ではないから流行らないか。

それにしても、Pの競技場で翼のはえた龍が日に日に強くなっていく様は壮観である。港で騒ぎを起こすことなくひたすら育てている人がいらっしゃるということですよね。まだしばらくは「詰まない」ようだ。