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東大生よ、nation ではなく state の話をしようではないか

コンピュータ(AI)の出現で、人力による先例の網羅的な検索と列挙はレガシーになったと言われる。そして人力による先例の網羅的な検索と列挙は、学問の基礎体力(のひとつ)のみなされているわけだが、ここにトリックがあるんじゃないか?

確かに、網羅的な検索と列挙は、学問「にとっても」有力な武器のひとつになり得るが、近代国家がこの能力を重視して、この能力に秀でた人材を育成する機関を設けたのは、学問の奨励以上に、官僚の養成を目的としていたのではないかと思うのです。

つまり、既にカルスタ・ポスコロで散々論じられたように東京音楽学校が国民唱歌の普及を目的として、「歌う国民」を創ろうとする national な機関だとすれば、東京帝国大学は、そのような国民を統べる官僚を養成する state な機関だったのではないか。そして、national な音楽学校が大正期にアート・スクールを兼ねたように、state な帝国大学が大正期に知と教養の象牙の塔を兼ねたのではないか。

こういう風に考えると、90年代以後のどうにもすっきりしない大学論に、別の角度から光を当てることができるように思う。

  • 京大教育学部の先生が「教養主義の没落」を唱えたが、そもそも教養主義などというものは、彼の出身校である京大(大正期にあとからできた)の存在意義に過ぎず、そのようなものが没落したところで、state の機関である東京帝国大学はビクともしない、と見るべきだったのではないか。
  • カルスタ・ポスコロは「国民 nation」の批判的吟味を大きな柱にしていたが、これもまた、state を問わない点で、教養主義の没落を嘆くのと同様に的を外していたのではないか。(東大生や東大教員が「創られた説」で nation 批判に参入したからといって、「東大も変わった」などとダマされてはいけなかったのではないか。)
  • 近年の「文系不要論」は、コンピュータ(AI)の出現によって「網羅的な検索と列挙」を人力でやる必要がなくなったことに対する官僚の危機感と表裏一体なのではないか。そして官僚も変わるので大学も変わってくれ、と言えばいいものを、これまで検索と列挙の対象ではなかったものにまでその範囲を広げて従来の職域の生き残りを図るとともに、「網羅的な検索と列挙」のトレーニングはもはや不要だ、という思いから、文系学部を攻めている、ということではないか。

そしてこのように考えると、官僚養成機関としての東大だけを残して、あとの大学は、もう、官僚と縁を切って、「大学」というステータスを返上するつもりで応対するのがいいかもしれない。state の維持は、明治期に帝大がひとつだったように、東大だけあったらなんとかなるでしょう。そして AI 登場以後の官僚に何が可能か、という、state の未來については、もう東大生に任せたらいいんじゃないか。

で、国際的に通用する研究者としてのライセンスという意味での学位・博士号は、官僚養成機関としての東大とは別立てで、民営化することも可能じゃないかと思うんですよね。国家 state の助成がなければ学問は成り立たない、みたいな発想が、実はそう思い込んでいるだけなんじゃないか、という気がするのです。(アートもそうだけど。)

出世したいのか、学問がしたいのか、両者はすっぱり分けてしまうほうがわかりやすいんじゃないか。両方を「大学」が兼ねるから話がややこしくなるのであって。