マノン・レスコー

これは、惚れた女性をどこまでも追いかけてしまう情けない男/男の情けなさのドラマだと思っていたのだけれど(だから苦手だったのだけれど)、どうやら当世のテノール歌手で、そういう役を獅子奮迅に歌い演じるタイプはいなさそうで(そういうタイプの情けない男がこの世からいなくなった、ということではなさそうだが、テノール歌手でそういうのを演じそうな人が思い当たらない)、そのように「情けない男」の存在感が希薄になると、この作品もまた、しばしばプッチーニの作品はそうであると言われるような「女性のドラマ」のヴァリアントに見えてくる。

時に第二幕は、ロココ調の音楽に乗せた情交がばらの騎士みたいだなあ、とか、デグリューがマノンを問い詰めようとして逆に彼女に惹かれてしまうのは、ヴェルディが椿姫第二幕後半でやったヴィオレッタの公開処刑のようなアルフレードの激高を踏まえて、似たようなシーンをこれから世に出ようとするプッチーニがもっと上手に書こうとしたのかもしれないなあ、とか、情事がバレるところは、音の感じを含めてトリスタンとイゾルデを意識しているんだろうなあ、とか、第三幕の女の囚人とそれを取り囲む武装した官憲、という設定はなんとなくカルメンっぽいし、その音楽を含めて考えると、次のトスカにつながっていくのだろうから、これは、この時代に好まれた題材だったのかなあ、とか。そのあとで囚人を船に乗せようとゴチャゴチャやっているときにマノンとデグリューが2人だけの世界に浸るのは、合唱と主役たち(群衆と個人)を対比するグラントペラのタブロー場面と、ボエーム第三幕、2組の恋人たちの別れ話の同時進行(群衆でも個人でもない複数の人間たち)の中間形態に見える、とか。

「情けない男」でグイグイ物語を引っ張ることがないから、こういうことを色々考えてしまうわけだが、こんな風に、舞台が無数の素材・アイデアの散乱に見えてしまうのがいいことなのかどうか、よくわからない。やりたいことを全部盛り込んだ若き日の野心作、ということなのかもしれないけれど。