希少性と継続

「聖地」で「レア物」を追いかける姿がネットメディアやマスメディアで取り上げられた頃は、近所のジムにも流行りもののラプラスが数体登場していたが、その後、カイリューなどをそういう一発屋では届かない強さに育てているトレーナーさんが出てきて今日に至っているようだ。日々そういうトレーナーさんのレベルと cp がじわじわと上がっていくのは、なんだか迫力がある。継続は力なり、みたいな感じか。一過性の港の賑わいは、都市設計や都市生活のモラルを盤石にして群衆を楽々と飲み込んでしまう状態を作るゲーム外のインフラと、こういう風なゲーム内の有力な対案の両方があればいいわけですね。

それにしても、こういう一過性の騒ぎにSNSがどの程度関与したか、ということ、そしてどこかで黙々と手持ちの種を育てているようなプレイヤーの存在(数は決して少なくないはず)をどうしてSNSは拾い損ねるのか、ということを考えると、SNSもまた、ARを喧伝されたゲームとは別の仕方で現実を拡張していて、ポケモンGOというゲームは、奇しくも、AR的なものとして、SNSの対案みたいな役割を果たしつつあるのかなあ、と思う。そういう関係にあると考えれば、SNS大好きな人たちのなかに、「ポケモンGOというのは要するに○○ですよ」とマウンティングして「自分たちの拡張現実」(=SNS)の優位を守ろうとする奇怪な言動が出るのも説明がつく。

たとえば、「断片」の社会学フィールドワーカーさんが、「ポケモンGOは路上喫煙のようなものだ」と前に発言したのを見て、ああ、この人はゲームのことも喫煙のことも上手に取り扱うことができなくて、きっと、大衆扇動による粛清、という古くさい手法にたやすく屈するメンタリティなんだろうな、と思ったことであった。

10年くらい前には「はてな村」というのがあったとされるが、SNSにも、そろそろ村っぽい風情が醸し出されていますよね。

(クラシック音楽でも、ここ1、2年で、「SNS村」のなかでのみ有名であったり、忘れがたい名舞台として熱く語り合われる案件が目立つようになった。マネジメントな人たちが、せっせと「SNS村」に広告を流しているだけのことで、実は、SNSに「語り合い」が成立しているわけではなく、あたかも語り合っているかのようにタイムラインを構成しているだけだったりするわけだが。そしてそのような主催者・マネジメント・広告主の目にとまって、リツイートしてもらえればラッキーという下心で「感想」をせっせと書くフリーライターがいたりするのを見ると、この村の風景は実に物悲しい。)