カエサルのものはカエサルに、個人の栄誉は個人に

たとえ国家を挙げて理想的な環境を整えたとしてもこれ以上勉強しそうにないタイプの「人材」が相変わらずの尻馬論法(ノーベル賞学者も言ってるんだから日本の大学行政はダメなんだ云々)にしがみつくに及んで、ノーベル賞の政治的使用価値は、もはや限りなくゼロに近いと世間は思い知るだろう。賞を得た個人を友人知人が「おめでとうございます」と祝福したら、それでいい。そういう種類のお祝い事なのだろうと思います。

それに、「発明家」という概念の歴史的相対化は近年の科学史・技術史の重要な成果なのだから、ダイナマイトを発明した人物の遺産による祝福を科学関係者が絶対視する、という20世紀の奇妙な風習は相対化されてしかるべきだろう。

「戦争と平和」という20世紀的な「問題」(19世紀の戦争を描いたトルストイはノーベル賞を授与されませんでしたね)とか、「世界的栄誉」(それはそれで何らかの意味があるのだろうと大江健三郎などを見ていると思わないではない)とか、というのとは別に、それぞれの国家は必要なことに必要なリソースを投入できていたほうがいいのだろうから、それは「裏番組」としてやればいいのではないか。裏番組のスタジオにカメラが乱入するサプライズ、大晦日の紅白放送中のNHKホールに日本テレビのお笑い芸人が突撃するかのような世紀末的自家中毒はもう飽きた。