誰がどのようにアーカイヴの作成に横槍を入れてきたか

どこかのまとめサイトで「アーカイヴ作りにしかるべき予算と専門知識が必要なことは当たり前ではないか」というコメントが付いたそうだが、ゲームのような学術研究領域としてまだ十分に認知されていない対象だけでなく、既にしかるべき機関が所蔵している貴重資料の場合であっても、使えるアーカイヴを作ろうとするとものすごく多くの横槍が入る。

私は、先日、大栗裕作品目録を公開したわけだが、なぜこういうものを、大栗裕の遺品資料を大学図書館が所蔵している間に作成できなかったかというと、

  • 図書館の資料整理業務委託を請け負っていた当時、目録の雛形を作って図書館職員に見せると、「この分類は図書館の既存の楽曲分類と合わないので不都合である」と言われ(←貴重資料の目録を一般図書の目録と統合する予定があるわけではなく、そこに合わせる意味が私にはわからないのだが……)
  • 同事務職員には、「そんなことをする前に通常の貸出業務をやれ」と言われ(通常の貸出・問い合わせに円滑に対応するためにこそ、事前に正確な目録が必要なのだが……)
  • さすがに、研究者はこういう作業の意味がわかるだろうと思って、途中経過の報告を学会発表として申し込むと、デモに夢中だった担当者からけんもほろろな扱いを受けた。

この経験から得た現在の私の見解は、

  • 現在の日本の人文科学には、当該機関のあらゆる部署(事務職・研究職・司書等の専門職員)で人文科学資料のアーカイヴの意義についての理解が不足している。

ということである。

アーカイヴ作りが阻害されるのは、人文科学が迫害されているからではなく、人文科学がアーカイヴについて不勉強だからであると結論せざるを得ません。

そのような認識に沿って、私(たち)は大栗文庫資料を大学という研究機関から引き揚げたのであり、資料を妙な横槍の入らない場所に待避したことで、ようやく、まだ未整理な部分が残るにしても、アーカイヴの整理と活用が軌道に乗って、現在に至っています。

すべて実話ですよ(笑)。

たぶん、今「大学」と呼ばれる機関から「流出」「脱出」しているのは、「人材」だけではないんだろうなあ、という風にわたくしは推測しております。資料という「モノ」はときの政治動向に対して敏感であり、危険を察知すると「モノ」はその場から逃げていきます。資料に少しでも携わった者であれば誰もがひとつはその種のエピソードを知っているのではないでしょうか。今、博物館や資料館に収蔵されている「モノ」たちは、大なり小なり、そのようにして歴史の荒波をくぐりぬけている。アーカイヴは「大学」などという歴史の浅い脆弱な制度と運命を共にしたりはしない、ということだと思います。

「人文」の人たちが大好きなミシェル・フーコーは、何かそういうことを言ってませんか?

[追記]

とはいえ、もちろん、アーカイヴという「もの」の円滑な生を阻害しかねない最大の要因は、そのアーカイヴの管理人という有限で万能ではあり得ない人間の振る舞いでしょう。管理人は、しばしばアーカイヴを囲い込んだりしますから……。私は、そのような「管理人」の責任を引き受けるだけの度量はないと悟っておりますので、大栗文庫は、モノの管理と運用を分離して、わたくしは、資料のデジタルデータの運用のみに携わっております。モノは、大阪フィルハーモニー交響楽団の楽団史とも縁の深い資産です。

たぶん、どの資料でも、大なり小なり、様々な事情を調整して、何かこれに似た落としどころをそれぞれに見いだして運用されているはずですし、そういうのが、「人文科学」で言うところの human な営みなのではないかと、少なくとも私は思っております。日本の「大学」が、そのような humanity を今も覚えているのか、定かではないところが残りますが。