表と裏の投票ゲームは複数的か?

表と裏、という「紙の文化」に特徴的かもしれない語彙・発想の限界については、前に、斉藤桂氏の本についての感想として書いたことがあるけれど(だから、誰かが「表と裏の記号論」を一度表象文化論として本格的に論じてもいいんじゃないかと思ってはいるけれど)、

複数のプログラムが平行して走っている状態を、

(1) オンタイムにおけるオレにとっての「表」はこれだ、というのを固定して、「裏」については、オフタイムに情報を交換すればいい、そしてこれがまた楽しんだよ!

と想定すると、オフタイムの意義を擁護することになる。80年代のテレビは、「みんな」にとっての「表」がこれで、「裏」がこれだ、というのが、なるほどひょっとするとある程度固定していたのかもしれず、「表」の固定に対する補完システムとして、「みんなが「表」だと思うものを「表」だと考える」というゲーム理論風の美人投票論があったのかもしれない。(「みんなが何を「表」だと考えるか、投票動向は流動的であり、ある時点まではドリフの全員集合が「表」だったのが、ある時からフジのひょうきん族が「表」になる、とか。そしてそういう投票動向の推移を「パラダイム・シフト」というような大仰な言葉で呼ぶことによって革命願望を擬似的に満たす、とか。)

この場合の相対化とは、何を「表」とみなすか、のチョイスの問題、ということになりそうだ。人によってはNHKが「表」であり、人によってはフジテレビが「表」であり、人によってはドリフのTBSが相変わらず「表」であり、さらには、ファミコンが「表」で、テレビ番組はすべて「裏」だ、という反転した世界を生きるのがゲーマーだったのかもしれない。

でも、平行するプログラムについて、

(2) すべてが「表」であり得るし、「裏」でもあり得る複数

というとらえ方もありそうだ。たまたま開いたチャンネルを「表」として楽しんでいたのが、CMの間に隣のチャンネルに切り替えると、それはそれで面白くて、いつの間にかそっちが「表」になる、という状態である。70年代の宇宙戦艦ヤマトとハイジの名作劇場と三波伸介のてんぷくトリオは、むしろ、そういうことだったかもしれない。別に、私にとっての「表」はこれだ、というような定見はなく、複数が肯定される。

この場合には、オンタイムに複数のプログラムの間を飛び回ればよくて、オフタイムのフォローとか、そういうのは特に要らない。

表象文化論は、80年代が全盛期だったのだろうから、やはりどうしても、複数性を「80年代的」にオフタイムの情報交換込みに考えがちである、ということになるのだろうか? そのようなオフタイムから、日本の90年代を閉塞させていく「メタ」が発生したことを私たちは既に知っているわけだが……。豊かさの原像を80年代に求める郷愁の可能性と限界、というのがあるかもしれない。

そしてひょっとすると、デモクラシーについては果てしなく饒舌なのにリパブリックなものを前にすると腰が引けてしまう「なんとなくリベラル」な人文は、表/裏の投票行動と、複数性の肯定との差異を手がかりにして、記号論的に解析できるかもしれませんね。

日本のホモソーシャリティは、デモクラティックなオフタイムを好み、オンタイムをリパブリックに構成することを拒絶する、とか。