不在の説明責任には悪魔が宿る、かもしれない

ないことの証明は悪魔の証明だと言われるが、そこにいないこと、行かないことに対して説明すべき責任を負う、という発想は、つながりが過剰な悪魔の倫理かもしれない。

不在は単なる不在であり、例えば後で話を聞いて、行けば良かったと思ったら次の機会に行けばいいのであって、「行けばいいと思った」と言明する必要は多分ない。その言明は、そこではないどこかにいたあなたの存在を言葉で毀損しているし、そこではないどこかにいた他者がその体験を語る遂行的な言明をあなた自身にとっての利得で判断している点で、他者の言葉を道具的に使用している。話を聞いて、やっぱり行かないで正解だったと自己完結して、そのことをわざわざ言明する、というのが他者の遂行的な言葉を毀損しているのはいうまでもないし。

コンテンツの時代が批評を殺すとしたら、そのメカニズムはこの辺りにあるかもしれない。