1.
自分ではいいと思わなくても、他人がそれをいいと思っているであろう事柄を見事にやり遂げることは、むしろ、日常的によくあるのではないか。そのような行為ができなければ、模倣が成り立たなさそうだもの。(なんで他人はこういうのを喜ぶのかねえ、と、ぶつぶつ文句を言いながら模倣しているうちに、なるほどそういうことか、とあとから腑に落ちることはあるかもしれないが、それは、最初から自分がいいと思って模倣するのとは先後関係が違っている。)
これがつまり、感性論・芸術論は倫理に包摂されない領域を含むということなんだろうと思う。わざ・技術は、倫理とは異なる判断を要請する。
なんでもかんでも倫理・善きことに包摂されてしまっては、技芸保持者は商売あがったりである。
2.
存在を肯定することと、その存在を「善し」と価値づけることは、ひょっとするとある種の宗教的信念においては等価かもしれないが、そうなると、存在論と意味論の区別はどうなってしまうのだろう。
哲学者は、一般向けの概論で存在と意味の区別を教えながら、仲間内の奥義・暗黙の約束事としては、「善きこと」の前にひれ伏すことを要請するのだろうか? そのような顕教と秘教の区別においては、どちらが「表」でどちら「裏」なのだろう。あまり世俗的とは言えない思考のような気がするのだが。そして労災認定されるような状況での自死とは、さしあたりかなり世俗的な事件であるように思うのだが……。
(それとも、ある人物の講義で単位を認定された者は、知を授かることで聖別されている、というようなことになるのだろうか。もちろん、そのような信念を抱く自由から何人も排除されているとは思わないが……。)
3.
神とは最終原因を指す観念である、という風に言いうるとしたら、「知とは人間による神への挑戦である」という主張に何らかの理があるのかもしれないけれど、そのような挑戦において、諸領域を統べる大統一理論を構築する目論見は、現状のあれこれを鑑みると、正道というより迷い道ではないかという気がしてならない。神ならぬ一介の被造物の灰色の脳細胞がそのように囁いているに過ぎないが。