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うたの秋

堀朋平さんの本を必要があって再読。信時潔から中田喜直(明日、演奏会があります)、そしてシューベルトと進む「歌曲の年」になりつつある。

買ってすぐに大急ぎで読んだときにはわからなかった(読めなかった)のだけれど、シューベルトの音楽語法 → 詩(人)と音楽(家)の関係 → 批評(歌曲の聴かれ方) → シューベルティアーデ(歌曲を支えるコミュニティ)……というように、章が進むに従って変数が増える形式で書かれているのですね。そしてここで論究される「シューベルト」は、後期の芳醇ではあるけれども閉塞しているかもしれない無限のヴァリアント生成(「天国的な長さ」)ではなく、それに先行する中期の「変容の瞬間」に照準が合わされている。いってみれば、近代とは「再帰性」である、とする「失われた20年」の人文の議論に対して、それに先行する近代の立ち上げ、若々しい「切断」を輝かせる話になっているようだ。

学位論文の段階では、おそらく先行研究を踏まえた方法・視点の定位という手続きがこの前にあったのでしょうけれど、なるほど、こういう構成は、決定的な「瞬間」「行動」を捉えて、それが波及していく様を見極める、というスタンスにふさわしいのかもしれない。器楽的・解釈的な Vortrag (20世紀のピアニストが楽譜を全部暗譜して、全体の構成を見据えて周到な準備で演奏を組み立てるような)ではなく、歌手が声を発して、その帰結を引き受けるのに似た思考の歩み、「歌手の思考」かもしれないなあと思いました。

(だれかが「つづれ織り」と形容したらしい、連想が連想を呼びさますような話の展開も、楽音の自律=「音楽とは音の関係である、以上」という潔さとは違うやりかたで、言葉と音楽が相互に介入し合う場を捉えるときには、このようになっていくものかもしれない、と思います。)

ミニマムに切り出された命題を最初に出して、その帰結をひとつずつ変数を増やしながら見極める、という構成をすぐには読み取れなかったのは、最初に「全体」を提示して次第に細部へと分け入るテクスト読解=謎解き話法が一般的な「人文」の作法に私が慣れすぎていたからだろうと反省しました。でも、こういう書き方は、数学や自然科学では、たぶん普通のことですね。ポスト人文時代の歌曲論がノヴァーリスやシュレーゲルのロマン主義を音と言葉のサイエンスとして切り出そうとしていることになるのかなあ、と思いました。

惜しいなあと思うのは、本当は歌手にも読んで欲しい本なのに、読み取られることが期待されている文脈等へのレファレンスなどの凝縮度が高くて、しかも、情報を凝縮するやり方がいかにも「人文」マインドな読書人を想定した文体なので、こういうのに慣れていないとしんどいかもしれない、ということでしょうか。

(As-dur の曲をas-mollで始めて、Ces-durを経て調号の調に到達することで、到達されたAs-durが変容の瞬間として輝く「白鳥の技法」から出発するのは、不肖わたくし、そのアムプロムプチュで卒論を書いておりますので、30年来もやもやしていた宿題を鮮やかに解いて頂いたような喜びを勝手に覚えております。As-dur即興曲の場合は、もうひと工夫して、到達されたAs-durからのゼクエンツ(有限性に囚われたさすらいの典型でしょうか)が崩れた先で、サラバンドのリズムと16分音符の錐もみから逃れた地点で8小節だけ、4度上行から順次下行するメロディーがアルカディア風に花開く、もうひとつの「楽園の幻影」が用意されているのかなあ、と思いつつ。それから、cis-mollの中間部は、as-moll/As-dur領域のリズム、音程細胞を別様に組み替えて作られているので、輝かしい「変容」を「冬の旅」風の世界に投入した裏ヴァージョン。下意識における悪夢を経ることで、主部の再現が一種の「再生」として機能していると言えるのかな、と思ったりしております。こういう習作風のピアノ曲を書いて来し方を総括したことで、死の直前の「ポストロマン主義」が可能になったのかもしれません。)