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予言の結末

そういえば去年の5月、前回シューベルトの歌曲にまつわるお仕事をさせていただいたときに、私はこういう風に書いたのでした。

シューベルトの Freundkreis の特性について、私は Walther Dürr が Reclam の概説書に書いている文章がコンパクトでよくまとまっていると思っているのですが、その後、より本格的な研究が出たりしているのでしょうか? 「つながり」な「社会学」を上手に消化して使いこなす若い方々であれば、このあたり、日本語で面白く書けそうなネタがたくさんありそうに思うのですが……。Franz von Schober だけでも、ちゃんと調べたら、もっと色々な武勇伝が出てきそうだし。

「白鳥の歌」と「詩人の恋」 - 仕事の日記

これを書いた時点では、堀朋平さんについては美学に出たペンタトニックに着目する論文などのことしか知らなくて、だからコンサートのプレトークでも Reclam の Handbuch をゲオルギアーデスと吉田秀和に並べて紹介することしかできなかったのですが、1年半経って、本当に Walther Dürr を強力にフィーチャーして、シューベルトの友人サークルにおける「つながり」の重要性を最大限に輝かせる日本語の本が出現したことになりますね。

3年前の小岩さんのピアノ協奏曲の本でウェーバーの音楽がしかるべき文脈に収まって、この本でシューベルトの友人サークルが当世風に輝いたので、わたくしが学生時代に西洋音楽史の周囲をうろうろしながら「ここがちょっと面白いかも」と思っていたことは、わたくしよりもふさわしい人の手で無事に世に出たことになるようです。

わたくしは、心置きなく戦後関西洋楽史と大栗裕でいきたいと思います。

物事は落ち着くところに落ち着くものですね。

(ウェーバーのオペラのほうも、コンヴィチュニーが演出してメッツマッハーが指揮したハンブルクの魔弾の射手と、カリアリ劇場のオイリュアンテと、2つもいいDVDがあるから、どういうものなのか、おおむねわかっていただけそうですし。)

P. S.

世間では、自分がやりたいと思っていたことを他人が自分より上手にやると、人間はそれを嫉妬するものだ、ということになっているらしいけれど、あれは何なんですかね。誰の功績であろうと、いいものが世に出たんだから何が不満なのか、私にはよくわからない。「それはちょっと違うだろう」というところがあれば文句を言うけれど、そのような異議申し立ては、別に、オレのほうがあいつより上手くやれる、という自己アピールじゃないと思うんですけどね。

業績主義のゲームでは、「誰がそれを行ったか」ということのほうが、「何が行われたか」ということよりも重要で(=結果よりも過程を重視するアマチュアリズムめいたエートスの変種)、なおかつ、「自分がより多く、より高度な業績をあげること」が最優先であり、そのためには、他人の足を引っ張ったり、他人の業績を貶めてもいい(=ほぼデフレマインド)、みたいなことに今もなっているのでしょうか? さすがに、もう、そういう時代じゃないですよね。

(あと、さあ。弟子や後輩が何かをやろうとしているのを素知らぬふりでほったらかして、「私は自由放任です」みたいに言っておきながら、その弟子や後輩が本を出して、それがちょっと評判になると、おもむろに「実は彼はかつて私の授業を受けておりまして、その頃から、いつかビッグになるだろうと思っていました」みたいなことを言うのって、最悪だし、かなり古くさい昭和のコネ社会の再来だと思う。

グローバルとか、みんなもっと外に視野を広げよう、とかいいながら、人間関係のネットワークを狭い範囲に囲い込もうとしているのは、誰よりもあなた自身じゃないか、ということになると思うんだよね。誰のこととは言わないが。

かつての教え子だからっていうんで、早速、自分が館長をやっているホールに引っ張ってくる礒山先生のほうが、ちょっと露骨すぎないか、とは思うけれど、むしろ人材を広い場所に押し出す仕事をしていると思う。ネットでお友達ごっこの雑談をしてるだけじゃ、物事は動かないよ。

キミは音楽の世界を妙にかき回したいようだが、音楽に何か恨みでもあるのか(笑)。)