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聴きつつ歌う

声とピアノの関係に画期的な変化をもたらしたのが近代ドイツ歌曲だとされている。

聴き手は歌曲の声とピアノ(器楽)を両方同時に聴くことができるわけで、聴き手こそがこのような声と器楽の関係(の変化)の立会人(耳の問題なので「目撃者」とは言えないか)ということになるが、それでは、歌手は、そのような事態を聴いているのか、一般に、歌う者は周囲の音をどのように聴く(聞く)のか?

展示音楽と参加音楽という区別でよく言われるが、中世や近世の社交のポリフォニーは、自分たちで歌いながら楽しむものだった(=歌わずに全体を聞く立会人は想定されていなかっただろう)と考えられている。周囲の声と自らの声が近づいたり遠ざかったり、絡まったり、響き合ったり、対立したりする様を歌いつつ聴いていたのだろう、とひとまずそういうことになりそうだ。人間は「聴きつつ歌う」ができる、という想定である。ポリフォニーとはそういうゲームだ。

一方、能では、謡いも舞いも囃子方も、周りに合わせてはいけない、と教えられるらしい。懸命に自分の「間」で進めば自ずと合う、というわけで、雅楽や近世邦楽のヘテロフォニーを考え合わせると、あたかも日本には、「聴かずに舞う/謡う」を推奨する技芸があったかのように見える。少なくとも、伝統芸能で言う「間」というのは、周囲に追随するのとは違う状態を指しているようで、「つながり」の人々が再評価しつつあるように見える「空気を読む」とも、またちょっと違っているようだ。

ただし、こういうのはすっきり分けられるわけではなく、シューベルトやシューマンの歌曲で、歌手がピアノの何をどのように聴くか、リズム・テンポを聴くか、それとも、声と重なったりズレたりする音程を聴くか、それだけで歌い方(とアンサンブル)が随分変わったりするのだから、「周りに合わせないヘテロフォニー」というのも、決して一枚岩ではないと思ったほうがいいかもしれない。西洋流のハーモニーでは不協和が協和との関係で表現に貢献するように、ヘテロフォニーには、ノリとアワズの区別と使い分けがあって、近世の浄瑠璃や三曲合奏は、そこがかなり微細に洗練されているようです。

何の話かというと、中田喜直なのです。

彼は東京音楽学校のピアノ出身で、戦前の山田耕筰あたりと比べると、ピアノパートが格段に洗練されて、あっちこちにショパンから印象派までの(ときにはもうすこし先の20世紀の)ピアノ文献を参照した形跡が明瞭にあるわけですが、その充実したピアノパートは、堀朋平がシューベルト歌曲に関して好んで使う言い回しであるところの「声(詩)への介入」という感じがしないんですね。声のパートも、畑中良輔が生前に熱く語っていたように、山田流の一音節一音のデクラメーションではなく、気持ちよく語ることができる譜割り(団伊玖磨などとともに戦後の日本の歌曲・歌劇作曲家が共通に取り組んだ課題ですね)になっているのだけれど、ピアノパートは、流暢な声の背後で響いているゴージャスなサウンドトラックに聞こえる。声は声でお客様に語ってください、ピアノ=私は私で楽しくやりますから、という風に、声とピアノが交差・干渉しない2つのレイヤーになっている。そしてこれは、声のタイミングにピアノが付ける、という風な書き方が基本になっているのとワンセットだろうと思います。

このスタイルは、フランスのダンディたちの歌曲を参照したところがあるのだろうとは思いますが、こういう譜面の歌曲で、歌手はピアノをどのように聴くのか、ひょっとすると、歌手がピアノをあまり聴かずに自前で気持ちよくなって、ピアノはピアノで鍵盤上で楽しく遊ぶ、みたいなことになっていたりはしまいか、と、心配になって、でも、それが戦後日本の「うた」だったのかなあ、と思ったりもする。

それは、戦後的な「新しさ」だったのかもしれないし、聴衆の耳には調和して聞こえるけれども声とピアノの現場はヘテロフォニックである、というように、二重のディスコミュニケーションを仕掛ける恐ろしい構造であるように見えなくもない。

(ゲオルギアーデスが、シューベルトは古典的に素晴らしくシューマンは堕落している、と主張したときの論法の焼き直しみたいな話になってしまって、こういう見立ては、近代歌曲論ではありきたりだから、もうちょっとよく考えて理屈を組み立てないとダメなのだろうとは思いますが。)