記号と知能

森羅万象を記号に置き換えて操作するのは、人間(そしておそらく高等生物全般)の有力な武器で、20世紀の記号をめぐる議論が先鞭を付けた情報社会のヴィジョンは、記号操作の可能性を極限まで押し広げることで人類を新たなステージに高めよう、という話だと思う。IQテストを見てもわかるように、既に知能とはほぼ記号操作の能力のことであると見られているようで、教育は記号操作の訓練・習熟に焦点を合わせて編成されているので、大学人のような記号操作能力で地位を築いた人たちに未來予測をさせると、情報社会の推進を待望することになるのは、それこそ「再帰的」に当然かもしれない。そういう社会が来れば、自分たちはまず食いっぱぐれないだろう、と思えるからだ。

でも、記号操作のみに特化して習熟しているだけの人材がいまいち使えない、というのは、世間の経験則であるだけでなく、教育・大学関係者も、身近な現象なので、たいてい気付いているところですよね。

記号操作能力は、バカやハサミと同じように「使いよう」で、人間社会の唯一特権的な原理というほどのものじゃなさそうだ、という感触・経験則は、情報社会をいくら言っても、そう簡単には揺るがないんじゃないかなあ、という気がします。

記号操作能力という視点から見れば理系と文系の区別というのは大した問題ではなさそうで、その種の「賢さ」をアピールすれば生きる道はあるだろう、というのが知の擁護の本線と目されているような気がするのだけれど(官僚制もまた記号操作の体系という一面があるのだし)、でも、それで世間が納得するのかどうか、そこはよくわからない。