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クラシック音楽にも時は流れる

実際に、たとえば第1幕第2場の「手紙の場」の歌詞は、わずかの削除と補筆こそあるものの、原作の第3章・第31節の文章をほぼそのまま歌詞としたものである。

エフゲニー・オネーギン (オペラ) - Wikipedia

手紙を書いているうちに夜が明ける、というのは、プーシキンの有名な戯曲(メトのライブビューイングのインタビューで、ゲルギエフは「ロシアの学校ではこの戯曲を暗唱させられる」と言っていた)の有名な場面なわけで、ドン・キホーテといえば風車だ、というように、オネーギンといえば徹夜のラブレターだ、とわかった上でチャイコフスキーはこの作品のオペラ化を決めたと思われる。

ということは、何か成算があったと考えるのが自然だろう。

このあたりは、ほぼ間違いなくオペラ研究で誰かが既に精密に論じているだろうと思うけれど、深夜に恋心に悶々とするうちに時が経過する、というのは、ワーグナーっぽい気がする。チャイコフスキーがトリスタンを見たのかどうか不明だが、オネーギンのオペラ化の話が彼の元にもちこまれる数年前、1874年にバイロイトに行っているので、ワルキューレの双子の兄妹が語り明かす場面は見ていることになる。「Lenz!」とか叫んで、トネリコの剣を引き抜いたりする濃密な夜は二重唱だが、ロシアの地方のお嬢さんが、(憧れのヨーロッパの誇らしげなデュエットではなく)片想いのモノローグで夜を明かす、というのは、ワーグナーとの対比で考えるのが面白い気がする。

ゲルギエフは、そのあたりを全部知って、実際に上演もしている劇場の人だし。

「芸術の自律」は、貴族の享楽(美しい生活に芸術を埋め込んでしまうような)から芸術を切り出そうとする19世紀の新興ブルジョワにとっては一種の希望の原理だったのだろうけれど、20世紀の大衆社会にあっては、「頭でっかちなお勉強は要りません、芸術は先入観なしにハートで受け止めればいいのです」という感じになった。そのようなスローガンに乗るほうがむしろ社会の運営が安定する、というような状態を指して反知性主義と言うのだろうけれど、オペラ・アリアで時間が止まるのを避ける動きは、それこそ「芸術の自律」が言われ始めた19世紀初頭から様々にあったことくらいは知ってからチャイコフスキーを見たいものだ。

シェーナ・カンタービレ・カバレッタと続く大がかりなアリアの合間に合唱を挟んだり、新たな情報が舞い込んで状況が転換したり(←ここにもまた真田丸のサスケに似た「伝令」のドラマトゥルギーがある)、というのは既にロッシーニもやっているし、ベッリーニやドニゼッティを経て、ヴェルディでは、例えば椿姫の È strano! 以下の第1幕の幕切れでヴィオレッタの心は大きく揺れ動いて棒立ちのダ・カーポ・アリアとは全然違うわけだし、チャイコフスキーよりあとだが、ミミとロドルフォがそれぞれにソロで歌う場面は、逆にそこでは時が止まってくれないと困る風に物語が仕組まれている。そういう色々な試みのなかにチャイコフスキーがある。

19世紀半ば以後の段階では、何かに夢中になっているうちに時が流れている、という状態は一流の音楽劇作家たちにとって既知のパターンになっていて、ヴェルディやワーグナーやチャイコフスキー(あの特徴的なカンタービレのオーケストレーションを見るだけでもこの人がシンフォニーより劇場の人なのは明らかだ)やプッチーニは、それぞれのやり方でこれを自作に実装した、ということだと思います。

(昭和30年代の音楽之友社の雑誌や啓蒙書の記述であれば、イタリア・オペラのアリアは時間が止まる、チャイコフスキーはアリアで時間が経過するところが素晴らしい、でよかったかもしれないけれど、もはや国内でこれだけ色々なオペラが上演されている2016年に、チャイコフスキーをいきなりダ・カーポ・アリアと対比するのは、話の粒度が粗すぎるだろう。)